澱(おり)
島本 葉
第1話
少し時間が空いたのでふらりと古本屋に立ち寄った僕は、見知った背表紙に足を止めた。
それは僕の後悔とともに記憶されている本だった。
恐る恐る手を伸ばし、青い背表紙の天辺に指をかける。ゆっくり引くと、少しの抵抗を感じさせながらも、やがて斜めに引き出されて表紙が覗いた。
ああ、やはり僕の知っている本だった。もちろんタイトルと著者名から同じ本だとは解っていたけれど、表紙に描かれたカバー絵が記憶にあったものと一致して、胸の奥をざわつかせる。
沸き起こった重苦しい感情を押し込めて、僕はその文庫本を最後まで引き抜いた。
この本は、彼女に借りたまま返せなかった本だった。今でも、僕の自室の本棚の隅にひっそりとしまわれている。
手に取った文庫本はひんやりと冷たく、手のひらのから僕の熱を奪っていくように錯覚した。
上原さんは教室の隅でいつも本を読んでいるおとなしい女の子だった。当時の僕は読書には興味がなかったので、声をかけたのはたまたまだったはずだ。
「その本、面白いの?」
なんとなく発したその質問に、上原さんは勢いよく顔をあげると「うん、読んでみる?」と嬉しそうに笑った。メガネの奥の彼女の瞳はどこかキラキラしていて、少したじろいだ僕は曖昧な返事しか返せなかった。それを肯定の意と捉えたのだろう。翌日には、何冊かの本を大事そうに、嬉しそうに渡してきたのだ。
「これがおすすめなの!」
少し触れた彼女の手と熱量にうろたえて、僕は言われるままにその本を借りて読んだ。もう内容もあまり覚えていない。ただ、読書は意外にも僕には合っていたようで、彼女がすすめるがままに、何冊かの本を読んだ。今思えば、僕が読書を趣味にするようになったのは彼女の影響だったのだ。
上原さんはおそらく感想を言い合いたかったのだと思う。けれども僕は気恥ずかしさから「スゲー面白かった」とか「ワクワクした」など、カタコトで思ったことを伝えるのが精一杯。彼女はそれでもと、ニコニコと僕に感想をせがんできた。そして「この話はここと繋がっていて」とか、「この登場人物が」とかを楽しそうに話すのだ。僕が本を借りて読み、幾ばくかの感想を伝える。そして彼女の熱を浴びる。そんな不思議な関係が続いた。
それから何冊かのやり取りを繰り返し、彼女から最後に借りたのがこの本だった。今手にしているこの本は、少し経年の黄ばみがあるものの、きれいな古書だ。僕の本棚にある彼女の本とは違う。
あの日、彼女からこの本を借りて読み終えた僕は、手元のジュースを誤ってこぼしてしまったのだ。しまったと思ったときにはもう遅かった。あっという間にジュースの色に黒ずんだ本。ティッシュペーパーでできる限り水分を吸い取ったが、翌朝に乾いた本を見ると、こげ茶色のシミと、びらびらと目立つシワが残っていた。
「あの本どうだった?」
学校で上原さんはいつものように僕に問いかけてきた。多分、その時に謝っておけば良かったのだ。あるいはちゃんと説明して同じ本を買って返したりしておけば。
けれども僕は、彼女の本を汚してしまった事にうろたえてしまって「もうちょっと待って」と逃げてしまったのだ。
そうなるともう謝るタイミングを作ることは出来なかった。彼女はその後も何度か話しかけて来たが、僕は同じ応えを繰り返し、キラキラしたあの瞳を自分から手放したのだ。
気づくと、古書店のガラス窓からは夕暮れの光が差し込んできていた。オレンジの日差しが書棚にもあたって、柔らかく跳ね返っている。
手の中の文庫本も柔らかく光を反射していた。
そのとき不意に、この本を読んだときの気持ちが蘇ってきた。内容はいわゆるジュブナイル小説で、少年少女が少し不思議な冒険をする話だ。当時わくわくしながら一気に読んで、彼女とどんなことを話そうか。彼女はどんなことを感じて、僕にこの本を貸してくれたのだろうか。そんなことを考えていた。それなのに、僕は彼女のこの素晴らしい本に対する感情も汚してしまったのだということに、今更ながらに気づいた。
最後に見た彼女の表情はどんなだっただろうか?
悲しんでいたのだろうか?
怒っていたのだろうか?
「もう遅いか」
自嘲しながらも、僕はその本をレジに持っていった。
自室に帰ると、本棚の奥から彼女の本を取り出した。紙カバーをそっとはずして、先程購入した本と並べる。記憶にあるよりも、シミやシワは目立たなかった。
僕にはいくつかの選択肢がある。
今考えてるのは、ただの偽善なのかもしれない。ただ楽になりたいだけなのかも知れない。
けれども──
僕はゆっくりと彼女の本を手に取り、数年ぶりにページをめくる。
ワクワクした気持ちが次第に蘇り、涙が溢れた。
完
澱(おり) 島本 葉 @shimapon
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