第2話 水曜日のお嬢さん
店の奥、店主がいつもいる椅子から見える場所、手が届きそうで届かない高さに、あの本は置かれている。
展示している本で、売り物ではない。
以前「これは売り物ですか?お値段を教えてください。購入したいです。」と、訪ねた時に、そう店主が言っていた。
その本は、見開きに開かれた状態で、いつも綺麗な挿絵のページが見えるように飾られている。そして、時々ページが変わるのだ。
カランカランッ
最近付けられたドアベルが、狭い店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。」
お気に入りなのだろう。
店主は、いつものように、一番奥にあるレジの奥で、ところどころ擦れて年季の入った1人掛けの革のソファーに腰を下ろし、読んでいた。本から目をあげ、私をみた。
「こんにちは。」
私は店主にぺこりと頭を下げる。すると、店主はふわっと笑って、
「こんにちは。水曜日のお嬢さん。」
親しみを込めて私をそう呼んだ。その呼び名に笑顔で答える。店主は、私のその顔を確認すると、また読みかけの本に視線を落とした。
『水曜日のお嬢さん』
最近、古本屋「ねこのへや」の店主から、そう呼ばれている。
私は、この、私だけの私のための呼び名を、とても気に入っていた。
大切な人だったあの人から呼ばれていた呼び名には、他にも相手がいたのだけれど…。
このお店との出会いは、偶然だった。
私は、異動になってこの近くのビルで働くようになってから、いつも決まって水曜日のお昼休みにこの古本屋に足を運んでいた。水曜日は、シフトが唯一早番の日で、朝お弁当を作る時間がないから、お昼を求めて職場のそばを探索していた時に偶然、この古本屋を見つけたからだ。それ以来毎週ここに通っている。
初めてお店に入った時、なんだか心が落ち着いて、「また来たい」って思ったんだ。なんの変哲もない、時代を長く渡ってきた紙の匂いの中、天井まで積み上げられた古書が並ぶ、この小さな素敵な古本屋に。
本を見つつ、店の奥まで進むと、
「かわいい…」
思わず呟いていた。
そこには、値札のついていない本が、飾られていた。天井近くの本棚の棚にちょうど良く見える角度で飾られている一冊の見開きに置かれている本に、私の視線は釘付けになっていた
この挿絵、とっても素敵…
くまのお人形さんが、優しい色合いで椅子に座って寝ているような絵だった。
年季の入った本の、その挿絵もまた、年季の入った色合いだったが、それがまたなんともいえない魅力を放ち、立ち止まらずにはいられなかったのである。
挿絵に魅入っていると、
「こんにちは。」
不意に話しかけられて、そちらを向くと、白髪で、黒いエプロンをみにつけた男性が立っていた。
「こんにちは。」
会釈をする。
不思議だ。
エプロンを身につけているだけで、このお店の人だって思うことが、とても不思議だった。けれど、きっとこの人は、このお店の人だと、ひと目見ただけで確信している自分がいた。
「ごゆっくりどうぞ。」
店主はそう言って本を一冊手に取ると、またレジの椅子に腰をかけ、読書をはじめるのだった
なんかいいな。
お店も店主さんも。
それから、毎週水曜日に立ち寄るようになった。
半年が過ぎた頃、店内に落とし物をして店を後にしようとした私を、
「水曜日のお嬢さん。」
と、店主は呼び止めたのである。
それから、私は、「水曜日のお嬢さん」と呼ばれている。
*******
店に展示されている“見開かれた本“を見るために、店の一番奥へと進んでいった。
「公園……。」
挿絵は、桜満開の下に置かれた、木製のベンチの絵だった。誰も座っていない…
ああ、そうだ。初めてデートした日。あの人と公園で桜の花を見ながらお弁当を食べたんだった…。美味しいって言って全部食べてくれて、あの時本当に幸せだったなあ…。
「…な、泣きそう…。」
このビルに来てすぐに、彼氏ができた。職場の同僚の紹介で合コンして、気があって付き合い始めた。嬉しかった。
でも、半年ほど経ったころ、他の女性ともおつきあいしていることが発覚した。
たまたま、知らない女性と腕を組んで歩く彼を見かけてしまったのだ。私を呼ぶ時に使う彼が付けてくれたのと全く同じ呼び名で呼ばれる私より若い女の子…。
二股がバレないように…か…
最近呼ばれるようになった呼び名は…。
ズーンと体が一気に重くなる。
どっちが最初だったのかな…
わたし?それとも彼女?
最近になって呼び名で呼ぶようになったから、きっと最近二股をかけるようになったのよ。最初は私一筋だったはず!ううん、最初から遊びだったのかもしれない。私のことが好きなんて、全部嘘だったのかもしれない。1人で考えていたって答えも出ない、彼に聞いたって真実を語る保証なんてない。不毛なことばかり考えてしまう。心がうわあと血が駆け巡るようにおかしくなっているのに、目の前を楽しそうに歩く彼を捕まえて、追求するなんてとてもじゃないけどできなかった。できなかったんだから仕方がない。
「別れましょう。」
次のデートの日、思い切って彼に告げた。
「わかった!今までありがとうな!」
あまりにあっさりとした返事に、言葉も出なかったのを覚えている。そして、
「それじゃあ、元気で。今まで楽しかったよ。さようなら!」
と、爽やかに笑顔を向け、私の前から去って行ったのであった…
私の足は動かない。
ああ、つらいな
ああ、悲しいな
ああ、悔しいな
こんな答えを待っていたんじゃない。
あなたにとって私ってなんだったんだろう。
あっさり手放せる程度の女だったのだろうか。
目の前に解答を突きつけられたのに、疑問形で浮かぶ感情たち。
すぐには受け入れ難い状況に、彼の背中が見えなくなっても、その場から動くことができなかった。
ああ、今日がこんなに綺麗な青空でなかったら、立っていることすらできなかったな…
青からだんだん赤くなっていく空を見上げながら、どんどん心が空っぽになっていく…
自分で終わらせたことを、褒めてあげよう。
帰りに高くていつも買えずにいたケーキを3個買って、1人家に帰った。
次の週の水曜日
カランカランッ
「いらっしゃいませ。水曜日のお嬢さん。」
「こんにちは。」
いつものように挨拶を交わすと、真っ直ぐあの本の元へ。
今日はどんな絵を飾ってあるのだろう。
「!?」
その挿絵は「公園」だった。満開の桜の下にベンチがひとつ。前と同じ挿絵かと思ったけれど、今日のベンチには、熊の後ろ姿が2人、寄り添うように座っていた。
今日に限って、別れる前は誰もいないベンチ、別れた後は2人寄り添う熊の後ろ姿。
「なんで…?」
ああ、つらいな…
ああ、苦しいな…
ああ、………
立ちすくみ、視線を外したいのに、その挿絵から視線を外せなかった……
ああ、こんな幸せな風景見たくない…
私は思わずぎゅっと目をつぶっていた。
目をつぶったって、仕方ないのはわかっている。動かなければまだ目の前にあるのに。
*******
「桜の香り?」
さっきまで、古書独特の匂いに包まれていたのに、確かにふわっと春の香りがしたのだ。不思議に思ってそっと目を開けてみる。
「絵?ここどこ?桜?」
目を開けると、桜が満開に咲いた公園のベンチに座っていた。
「なんで?」
そこは、まるでさっき見ていた挿絵の絵にそっくりだった。
真上を見ると、青空と桜のピンク色しか見えない。隣は見ない。多分誰も座っていない。
ふと、涙が頬を伝って落ちた。
「この景色、知っている。」
彼との初デート。
あの時は、嬉しかったな。美味しそうに私が作ったお弁当を食べてくれた彼の顔を見て幸せだなあって思ったな。お礼にって、夕飯ご馳走してくれて。優しかったな。
ふと、顔の筋肉が緩み、ベンチに体重を預けた。
ベンチに座って、公園の桜と青空をみる。
ああ、そうだ。しばらくして、小さいことで喧嘩したんだ。彼は困った顔をしていた。いつも笑っていたのに。そう、お別れを告げたあの日のように。どんな状況でも、最後は笑顔だった。
二股をかけていたことは、許せない。
許せないけど、私は彼とお付き合いして、確かに『幸せ』だと思っていたことが、たくさんあった。全てを否定するには、材料が足りない…
「ふふふ。私、もっと素直になればよかったな。“彼の本当”は、私にはきっと一生わからない。でも、彼といた時、確かに幸せな時間があったとこは、確かに分かる。」
しばらく、ひらひらと舞う桜の花びらを眺めていた。ここは落ち着く。知っているけど、別の場所。私の知っている場所に似ているけど、違う場所。
いつも古本屋に飾られている本の挿絵の色合いととてもよく似ている。ノスタルジックで深くて優しい。
今は秋。
なのに、ここはぽかぽか暖かくて、つらくて悲しくてぎゅっと強張っていた体が、緩やかにほぐれていく感覚を覚えた。実際わたしは、そのベンチで確かにうたた寝をしていたのだ。
していたはずだった。
ふと、目を開けると、そこはいつもの古本屋だった…
「あ、あれ?」
キョロキョロあたりを見回す。
「夢…?」
そう思って上を見上げると、桜が満開のベンチに熊が2匹よりそって座っている。不思議と、今この絵を見ても何も感じなかった。なんだか気持ちがすっきりとしている。お店に入ってきたときより、やたらと体が軽い。
不思議そうにしていると、店主が近づいてきた。
「今日はその本をお買い上げですか?」
「は、はい?」
いつの間にか、一冊の本を持っていた。
狐に包まれたように、ぼんやりあたりをみまわしつつ、手に持っていた本を店主に渡たしつつ、なんの本を持っていたのか、見てみる。
『桜、写真集』100円
安っ!100円って、この桜の写真集が?
今店主に手渡した本は、綺麗な満開の桜の花の写真が表紙の、桜の花の写真集だった。
なんだか、自然と顔が綻んでいた。
「毎度。またどうぞ。」
「はい。」
100円玉と本を交換すると、カバンに本を入れてお店を出る。
ドアが閉まる瞬間、
「…行けましたか。」
嬉しそうな店主の声が、背中越しに聞こえた気がした。
カランカランッ
ドアベルの音と共に、バタンとドアが閉まる。
「?」
お店を振り返る。扉は閉まり、お店の窓からは、店主がお気に入りの椅子に座って本を読んでいる姿が見えた。
「今、店主が何か言ったような気がしたんだけど…気のせいかな?」
不思議に思ったが、なんだかすっきりした気分だ。
空を見上げると、雲ひとつない青空。
秋晴れ!
ああ、私、この空好き!
好き!の気持ちが、私の頬を桜色に染める…
さあ、また、歩き出すんだ!
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