古本屋「ねこのへや」

雲母あお

第1話 古本屋

店の奥、店主がいつもいる椅子から見える場所、手が届きそうで届かない高さに、あの本は置かれている。

展示している本で、売り物ではない。

以前「売り物ですか?」と訪ねた時に、そう店主が言っていた。


その本は、見開きに開かれた状態で、いつも綺麗な挿絵のページが見えるように飾られている。そして、時々ページが変わるのだ。


この古本屋に通って1年が過ぎた。その間、この見開かれた本を見てきて、季節感も気にしているのでないか、と思うようになった。見開きで展示する挿絵はどうやって決めているのかという真実は、店主に確認していないから分からない。


なぜ聞かないかって?


何度も確認しようと思った。けれど、どうして今日はこの絵のページなのかなと想像してみたり、今日はどんな絵になっているだろうと予想することが楽しみになってきたのである。この楽しみを壊したくなくて、真実を知りたくないという気持ちが湧き起こって、今もまだ店主には聞いていない。


今は夏。

いつも通り仕事帰りに古本屋に立ち寄ると、今日は海の絵だった。


海かぁ。海の絵も綺麗だなあ。


展示してある本は、古い本で、挿し絵の色合いも、少し年季がかった発色の良いものとはいえなかったけれど、とても味のある素敵な絵だった。


営業で外回りをしている私は、一日炎天下の中、お客様のところをまわって、へとへとだった。重たい足をやっと前へ出すように、ノロノロといつもの100円ワゴンに近づき、気になった1冊の本を手に取り、レジへと向かう。その途中、再び展示してある見開かれた本を見る。


「あれ?いつのまに?」

海の絵が、森の絵に変わっていたのだ。


ああ、夏に森の絵もいいなあ。


こんな場所に行けたら、自然いっぱいで風が爽やかで、木の香りがして、リフレッシュできるだろうなあ。


思わず立ち止まり、気づけば展示された見開きの本が見せる森の挿絵を、食い入るように見つめていた。


ああ、疲れたなあ。

ああ、毎日なんだかつらいなあ。

ああ、こんな場所に行ってみたいなあ。


目をつぶり、あの絵の森の中に自分が、立っているのを想像する。

エアコンの温度がちょうどよく、本当に山の森の避暑地にいる錯覚を覚えた。


ああ、いい気分だ…。

深呼吸をして、つぶった目をそっと開ける。


「!?ここは?」


目を開けると、そこは通路に本が天井高く積み上げられた古本屋の中ではなかった。

あの見開かれて置かれた本の挿絵にそっくりな森の景色が、目の前に広がっている。


「森!?」


目を見開く。

ここは森?それともあの挿絵の森の中?

それにしても、なんて素敵な景色だろう。

体の力がふっと抜けて、軽くなっていくようだった。

「ああ、なんだか体が楽になっていく気がする…」


ああ、気持ちいいなあ。


目を瞑り何回か深呼吸して、再び目開ける。森はまだ目の前にある。

「森の中を歩いてみたいな。」

森の中を歩きたくなって、そう呟くと、足を一歩前へと踏み出した。

すると…。

「あ、あれ?」

そこはいつもの古本屋だった。


どういうことだ?


キョロキョロあたりを見回す。


「夢…?」


そう思って体を動かすと、お店に入ってきたときより、やたらと体が軽いことに気がついた。

不思議そうにしていると、店主が近づいてきた。


「今日はその本をお買い上げですか?」

「は、はい。」


まだ狐に包まれたように、ぼんやり辺りを見回しつつ、さっき100ワゴンの中から選んだ一冊を店主に渡した。


「毎度。またどうぞ。」

「はい。」

100円玉と本を交換すると、カバンに本を入れてお店を出る。

ドアが閉まる瞬間、


「…行けましたか。」

嬉しそうな店主の声が、背中越しに聞こえた気がした。


バタンとドアが閉まる。

「?」

お店を振り返る。扉は閉まり、お店の窓からは、店長が椅子に座って本を読んでいる姿が見えた。


「今、店主が何か言ったような気がしたが…。気のせいか?」

不思議に思ったが、なんだか心も体も見違えるほど軽くなって、思わず鼻歌を歌いながら、帰路へとついたのだった。


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