月の小舟

 今日は早く寝て、少しでも体力を回復させないといけない。だと言うのに、私はちっとも眠れなかった。自室の一人には広過ぎるベッドのせいもあるし、いよいよゴールが近付いてきている事への興奮もあった。

 この場合のゴールとは(自称)魔王との対峙もあるけれど、同時に……


(旦那様との邂逅もまた、近いのね)


 ずっとそのために追いかけていたはずなのに、今は何故か、もう少しだけ猶予が欲しいと願ってしまう。何を躊躇しているのだろうか……どう決着つけるにせよ、まずは会わなければ話は進まないと分かっているのに。

 もしかして、それを恐れているんだろうか、私は?


 むくりと起き上がり、窓から外を眺める。

 ここから見える景色は好きなように変えられる。気分によって昼か夜かも自由自在だけれど、就寝時が明る過ぎてはぐっすり眠れない。この日は巨大な月の下、視界一面が果ての見えない湖になっていた。当然、ただの映像のはずなので、実際は眼下に屋敷の庭があるだけ――


「えっ!?」


 何となしに窓を開いた私は、パシャンと魚が跳ねた拍子に水飛沫がかかるのも構わず呆然としていた。先ほどまでのガラス越しの光景と寸分違わない……巨大な月と、湖。


(どうなってるの? ここ、どこ!?)


 思わず一歩下がった私は、ひんやりとした風に身震いして寝間着の上から肩掛けを羽織る。恐る恐る窓枠に近付き、手を伸ばして水に浸してみると。


「本物……」

「なにやってんだ、お前?」


 バシャバシャとかき混ぜていると、すぐそばでジャックの声がした。湖の上で、小舟を漕いでいる。意味が分からないけれど、この荒唐無稽さに似た体験として、私は納得する答えを導き出した。


(ああ、これってやっぱり夢だわ)


「こんばんは、ジャック。いい夜ね」

「呑気だな……眠れないのか? まあ俺もそうだから、気分転換に体動かしてるんだけど」


 彼も色々あって散々だったから、目が冴えてしまうのは仕方ない……主に私のせいで。シュンとしたのに気付かれたのか、ジャックはオールの手を止めてポリポリ頬を掻くと、窓の縁ぎりぎりまで舟を寄せる。


「よかったら、一緒に来るか?」

「いいの? ジャック、一人になりたかったんじゃ……」


 一緒に小舟で月を見るなんて、あまりにも私に都合がいい。小首を傾げたジャックの顔は、逆光になっていて見えなかった。


「明日からお前にも頑張ってもらわなきゃいけないからな。その前に息抜きも悪くないだろ。どうする?」


 ジャックはいつも無理に誘わない。ヴァルゼブルとの戦いだって、危ないからここで大人しくしてろとは言わず、私の意思を汲んでくれる。それは本当にありがたいし嬉しいんだけど……


(女としては、ね。どうせ夢なんだし……)


 私は取り繕うのをやめて、ジャックの手を取った。ぐいっと引っ張られた勢いで、小舟の中に倒れ込んでしまう。抱き留められて固い体と密着した瞬間に速攻で離れたが、惜しいと思いつつも恥ずかしさの方が勝った。

 ジャックは夕食時に見せた不機嫌さなど微塵も感じさせず、少し笑ってオールを握り直した。


「それじゃお嬢さん、束の間の黄金の時間をどうぞお楽しみください」


 彼らしからぬおどけた口調に、「お嬢さんじゃないでしょ?」とツッコむ気も失せるほど、私はぼうっとした頭で頷いていた。


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