第十二集:桃の花
桃の花が舞う春。
まだ少し肌寒い日々が続いていた中で、天までもが祝福しているのか、空は快晴。
太陽の光で温められた風が心地よく中原に吹いている。
瓏国黎安にある董侯府までの道には、たくさんの人々が列をなしていた。
豪華な装飾が施された馬車が連なり、その間をゆっくりと進んでいく。
馬車の中では、
今までに着たこともないほど豪華な刺繍が施された赤い装束。
賢妃が「もうあなたを着替えさせることが、なくなってしまうのね……」とつぶやきながら、一枚一枚着せてくれた婚礼衣装。
それだけで、胸がいっぱいで、「母上、わたしは永遠にあなたの息子です」と言うので精一杯だった。
馬車が止まった。
深呼吸を繰り返し、降りていく。
「あ……」
董侯府の開け放たれた門から見えたのは、牡丹の精かと思うほど艶やかな
緊張がほぐれていく。
照れくさくて、顔がにやけてしまう。
二人は董
董大師が鼻をすする音が聞こえる。
奥方は小さな声で囁くように「幸せにおなり」と言うと、目元を拭った。
皇宮までの道のり、街道からは割れんばかりの歓声が響き渡った。
「恵王殿下! おめでとうございます!」
「ご結婚、おめでとうございます!」
「恵王殿下万歳! 万歳! 万々歳!」
二人は馬車からその光景を眺めつつ、微笑み合った。
「照れるね」
「そうですね。私はこの日が来るのを毎日楽しみにしておりました」
「そうなの? 女性は結構落ち込むこともあるって聞いたことがあるから、ちょっと心配だったんだ」
「何をおっしゃいますか。私ほど幸せな
「今日は始まりだ。わたしと
「はい!
二人が手を取り合い、幸せをかみしめているとき、馬車の外では、こんなにも正しい結婚があるのかと、人々は感嘆の溜息を洩らし、祝福の空気は盛り上がりを見せていた。。
皇宮に着くと、
手を取り合う二人の姿はまるで精巧な彫刻のようで、宮女たちは頬を赤らめながらうっとりと眺めた。
二人が定位置に着くと、特別な純白の衣装を身に着けた宮女二人が進み出て、提灯の様に吊るされた香炉を持ち、その香しい煙を足元に撒くように先導を始めた。
通路の横に立っている人々が順に跪き、二人に対して
そして婚姻の儀が行われる建物へと入って行った。
そこには国父である皇帝と、
宮女二人が下がり、
そして立ち上がり、四人で道士から祝福を受けると、宴席が設けられている建物へと向かった。
庭園にはすでに何人もの賓客で溢れており、贈りものを保管しておく場所が足りていないほどだった。
「
少しのどよめきの中現れたのは、香王と星王兄弟。
「
「もちろんだ」
「とても素敵なお嫁さんに巡り合えたみたいだね、
叔父二人も
「では、お前の父親にも挨拶をしてくるとしよう。またあとでな」
「はい、叔父上」
にこやかな笑顔を浮かべ、二人の側から遠ざかった
「めでたいな、兄上」
「お、おお……。来てくれて感謝する。
「これも
「くそっ……」
弥王、というのは
つまり、二人は皇帝に対して「皇太子以下」の扱いをしたことになる。
一方その頃、
(どんなに毒を盛ろうとも、兄上と
その時、もうすぐ宴を開始するとの案内が出され、
最上段には今日の主役である
その横に、それぞれの両親が並んで座っている。
賢妃はそれでも妃の中では一番近くに席が設けられており、
全員が席に着くと、皇帝の挨拶が始まり、その後、表面上は無礼講というていで宴が始まった。
楽士による素晴らしい演奏に、宮女たちによる優雅な演舞。
宴は滞りなく進んでいった。
陽が落ちてくると、皇帝や皇后、賢妃やその年代の親王たちは「あとは若い者たちで楽しみなさい」と席を立って各々会場を後にしていった。
「
「大丈夫、と言いたいところですが、眠くなってしまいました」
「ふふ。実はわたしも。そろそろ行こうか」
「そうですね」
その日は二人とも婚礼衣装を脱いで風呂に入り、着替えたあとは布団に触れただけで溶けたように眠ってしまった。
色気のない始まり方だが、それも自分たちらしいと、翌朝ふたりは笑い合った。
結婚式から一週間後、
「行ってらっしゃい、
「行ってくる」
手を取り合い、見つめ合うと、たまらず
「まあ!
「
「嬉しいです。私は今日武術の稽古がありますので、帰ってきたら手合わせしますか?」
「そ、それはやめておこうかな……」
「あらら、残念です」
二人は微笑み合い、身体を離すと、
春風が心地いい。
すべてが煌めいているように感じる。
(結婚っていいものだなぁ……。へへへ)
心の変化を五感すべてで感じながら駆ける街中。
浮かれていても、少し視界を広げれば見えてくるのは路地裏でしゃがみこむ人々。
子供のころに口減らしにと親に売られたのに、売られた先でも不景気のあおりで追い出されてしまう。
もちろん、
治安は年を追うごとに悪くなっている。
それもこれも、すべては皇族と一部の貴族たちが私腹を肥やしているからだ。
(なんとかしないと……)
あれこれと考えながら駆けていると、つい皇宮の門を通り過ぎそうになった。
「恵王殿下、ようこそいらっしゃいました」
太監が柔和な笑みを浮かべながら迎えてくれた。
「すみません。叔父上たちを待たせてしまいましたか?」
「いえいえ。といいますか……、その、今朝堂に入るのは得策とは言えないかもしれません……」
太監は朝堂の方角を見上げながら、困ったように微笑んだ。
「どうかしたんですか?」
「それが……。陛下と香王殿下が激しい口論をしているのです。そこにあの口達者な星王殿下まで加わっているものですから……。もう、混沌としております」
「ああ……。それは困りましたね。一応、中には入ってみます。わたしが行くとこじれそうだったら……、ううん、太医院にでも寄って時間を潰そうと思います」
「それが良いかと思います。では、馬を預かりますね」
「……か、階段まで声が聞こえる」
何を話しているのかまではわからなかったが、確かに、怒鳴り合っているようだ。
「どうしよう……」
しかし、呼ばれてきたのだから、挨拶しないわけにはいかない。
「恵王殿下!」
号が呼ばれた。
(怒鳴り合っている割には早いな……。え、嫌な予感がする)
太監に先導され中へと入ると、そこには一触即発の皇帝と香王が睨みあうように立っていた。
星王は「お、渦中の人物が来たぞ」となぜか嬉しそうに笑っている。
「え、えと、皇帝陛下に拝謁いたします」
いつものように挨拶をしようと跪いたら、すぐに「立て、
「もしお邪魔でしたら……」
「
「な!
「いいではないか、兄上。本人に決めてもらおう」
「よく聞くんだ、
「は、はい、父上……」
「戦に行きたいか」
「……え?」
「おい! 説明してから聞けよ。それでは
「な! 皇帝に向かってその口の利き方はなんだ!」
「まあまあ、二人とも。
「あの二人は顔を合わすたびにああなる。なんのために言葉があるのか……。困った兄たちだ」
「
「それが私の長所だからな。で、戦の話なのだが、正直、聞きたいか? 何と言ってもお前は新婚だ。危険な場所へ行くのは気がひけるだろう」
「いえ、聞きます。幸い、妻は武人。わかってくれるでしょう」
「そうだったそうだった。
瓏国と燕国で
「本当はこの間の結婚式で
「け、結婚式で戦の話を……。そういえば、贈りものは立派な軍馬千頭でしたね……」
「さすがにそれはと思って私が止めたんだ。賢妃様は聡明な方だからわかってくれるだろうけど、皇后陛下は無理だろ?」
「う、ううん」
心の中では
「でも、どうして
不思議な酒で身体強化をして獣のような姿に変化し、襲い掛かってきた怪しい軍を所有している。
あのとき、
「そうか、
「というと?」
「
「え、それって」
「
「叔父上、本当はどうしてなんですか?」
「……
「教えてください」
「……誘拐されているんだ。瓏国と燕国は。年頃の娘ばかりをね。
「……子供を産ませるため、ということですか」
「その通り。
「酷い……」
自分自身が、
単純に怒りという感情だけでは言い表せない不快感。
「
「えっ、変な顔をしてしまっていたでしょうか」
「ううん、違う。心を襲う痛みに苦しみながらも、民の平穏を願い、戦うことを選ぶ……。そんな優しくて切ない表情だよ。ずっと昔に、何度も見たことがある」
少しだけ、目を潤ませている。
「行くんだね、
「はい、叔父上。わたしに出来ることならば、力を尽くしたいのです」
「わかった。そう伝えよう。あそこでまだ喧嘩をしている二人にね」
「父上、叔父上。わたしは戦に行きます」
「おお! ほらな、兄上」
「くっ……。本当にいいのか、
「行軍中の健康維持ならば、わたしと師匠、それに、
「……溜息しか出ないな。好きにすると良い。兵は禁軍大統領に相談すれば、よく練兵された優秀な者たちを見繕ってくれるだろう。くれぐれも、気を付けるのだぞ」
「はい、父上。無事に帰還することを誓います」
「うむ。おい、
「私が負けたところを見たことがあるのか?」
「く! 本当に可愛げのない奴め!」
「可愛さなど戦場には無用。では、
「ふんっ! さっさと出ていけ! お前は勝つまで戻ってくるな!」
「そのつもりだ」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。
その後ろを二人がついてくる。
「兄上、あの馬鹿を煽るのはほどほどにしてください」
「ふんっ。顔が視界に入るだけでも不快なのだ。仕方ないだろう」
「お、お二人とも、皇宮内でそういった話は……」
「ああ、ごめんよ、
「わかっている。すまんな、
「あ、はい……。そうですね」
二人のやり取りを見ていると、どうも調子がくるってしまう。
頼りになる叔父であるとともに、ずっと成長を見守ってきた弟達でもあるからだ。
(この二人にはもうしばらく
特に、
そうすれば、犠牲になる確率が上がってしまう。
(もう、自分のせいで傷つく人が出るのは嫌だから……)
また風に飛ばされてしまわないように。
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