第四集:親友
時折降る雨に救われながら、暑い日々を過ごしていた。
「ついに来たか!」
「どうしたんですか? 笑い声、調剤室まで響いていましたけど」
「そんなの聞こえるのは私か君くらいだ。とにかく、見ろ!」
「おお! 燕国皇帝に招待されたんですね!」
「そうだ! まぁ、厳密には燕国の北方にある国境を護っている軍の将軍からの依頼だけどな」
「それでも、まずは陛下に謁見せよって書いてありますから。わぁ、嬉しいですね」
「燕国皇帝、
「ええ、とても」
前世でまだ幼かったころに何度か父について行った燕国。
当時、父の姉、
三つの豊かな水源を保有し、燕の土地で育つ野菜は神をも喜ばせると言われていた。
そこで、まだ生まれたばかりの
ふくふくとした頬が可愛い、真っ赤な肌をした可愛い赤子。
育つにつれ、
野山を駆けずり回り、泥だらけになっては笑い合った。
燕国皇宮へ戻ると、いつもやさしく迎えてくれたのは、
まるで、もう一人の母親のようでもあった。
叱られることもあったが、常に深い愛情を感じていた。
そんな日々が、いつまでも続けばいいと、子供のころは無邪気に思っていた。
だが、互いにいずれ国を背負うことが運命づけられていた立場にあったこともあり、二人の仲の良さを良く思わない人々もいた。
そこから、すこしずつ手紙だけのやり取りになり、十六歳の時。
病に臥せっている父の代わりに出陣した、幾度目かの戦。
敵は不思議な酒を飲み、獣のように襲い掛かってきた。
普段なら苦戦などしないのに、敵の力はあまりに強く、次々と剣や甲冑を破壊されてしまった。
ここまでか、と、一瞬すべての希望が砂となりそうになった時。
青い閃光が目の前を横切った。
鮮やかな槍
まだ十三歳の少年なのに、その騎馬姿はまさに軍神。
皇太子という身分でありながら、父親である燕国皇帝に無断で出陣してきたのだ。
ただ、親友を救うために。
その兵力はわずか三百。
こっそりと皇宮を抜け出すために、精鋭だけを連れてきたのだと、
それでも、こちらの枯れかけていた心に炎を灯すには十分だった。
士気を取り戻し、さらに
この縁が、絆となり、二人は義兄弟の盃を交わした。
(それなのに、わたしはあっけなく弟に殺されてしまった。共に中原の平和を目指していた
どんな顔をして会えばいいのだろう、と、
(もう、人間ですらないのに)
通常、
鉄が持つ穢れ無き退魔の力が肉体を焦がしてしまうのだという。
しかし、
不老不死とは違い、〈老い〉以外では死ねないのだ。
目の前で幾星霜、愛する人々を失っても、それで心が壊れても、
救えぬ命を取りこぼすことを恐れて涙するような心優しい
それでも、生きることを選んだ。
脳裏に浮かんだ、あの人の笑顔のために。
「おい、おいってば」
「あ、すみません」
色々と思い出していたら、
「一つ言っておく」
「なんでしょう?」
「廃帝だと
心臓が強く跳ねた。
「……だ、大丈夫ですよ。だって、
「それは知っている。調べたからな。だが、どうも燕国皇帝は勘が働くようだ。それも、強く。身に覚えがあるだろう?」
「……で、でも」
「聞くところによると、側近にこう言って出陣したそうじゃないか。『胸騒ぎがする……。兄上が危ない!』と」
当時も
「今行かないと、後悔すると思ったんだ。勘が当たってよかった」と。
「気を付けます。わたしは、あくまでも
「ああ、そうだぞ。あ、『
「はい。成人の儀に使ったのと同じように
「うん、上出来だ。あとは出発する日、君の代わりにここに置いていくだけだ。まぁ、めったに皇宮の者が
「
「さすがは
「まぁ、あの誘拐事件の後からやたらとみんなに心配されていますからね」
「それは仕方ないことだ。甘んじて受け入れろ」
「わかっていますけど……」
こうして江湖に居る間は良いが、
それだけならば、少しくらいは我慢しようと思えるのだが、困るのは、
「わたしは立派な放蕩息子なのに……」
「そう思っているのは君自身だけなんじゃないか?」
「はぁ……」
溜息は口から出たあと、窓から夏の日差しの中へと溶けていった。
数日後。
荘厳ながら、目を刺すような光り輝くものはほとんどない、武人然とした意匠。
飾られているのは歴戦の勇姿を支えてきた武具を模した調度品の類。
そんな中で、鼻をかすめる懐かしい
まさか、いるとは思わなかった。
雨が降る空の下、ここは燕国皇宮。
燕国の太皇后となった、瓏国
(お、
急いで目を逸らす。
しかし、柔らかに漂う梔子の甘い香りが思い出をくすぐり、胸に切なさが募っていく。
名乗れたらどんなにいいだろう。
「あなたの甥、
瓏国にはもうかつての
だから失念していた。
伯母、莅櫻のことを。
鼻の奥がつんとする。
油断すれば、涙を流してしまいそうだった。
伯母の瞳は今も優しく、名前の通り、桜花の精のように美しかった。
ただ、その奥に潜む深い悲しみは、おそらく……。
「燕国皇帝陛下に
「顔を上げ、楽にせよ」
聞き慣れていたはずの、懐かしい声。
心が叫んでいる。
「あなたが
「はい。
「うむ。そして……」
目が合う。
悟るには短く、違和感を覚えるには充分なほどの間。
「
「はい、陛下」
わからないが、
「この度はお招き下さり、恐悦至極にございます。病の治療は時間との勝負。さっそく、
早くこの場から立ち去ろうとしてくれているようだ。
「その通りですね。では、案内させましょう。……一つよろしいですか?」
「なんでございましょうか」
「お恥ずかしながら、
また、目が合った。
どうやら、どうしてももう一度声を聴きたいようだ。
「わたくしの髪色と目の色は、生来のものにございます」
どんなに
今、
「そうですか。変な質問をしてしまい申し訳ない」
微笑む
「昔、お互いの両親に怒られるたびに
思わず、目を見てしまった。
「驚くと口を引き結ぶ癖がありましてね。
冷や汗が背中を伝う。
口が乾き、喉に何か詰まっているような、息苦しさ。
頭が真っ白になった。
「行くぞ、
「大丈夫か?」
口の中だけで発せられる限りなく小さな声――
「大丈夫です……。ただ、燕国に長居するのは危険な気がしてきました」
「私もそう思う。陛下は君の何かに過去の姿を見たんだろう。さすが、常勝皇帝だな」
「その呼び名、嫌がりますよ」
「そうなのか? 格好いいのに」
手足にも熱が戻り、身体の硬さが抜けた。
「先生方、こちらの部屋で嶺将軍がお待ちです」
「ありがとうございます」
案内してくれた太監が扉を開けると、落ち着いた焦げ茶色の室内に、強面の男たちが座っていた。
二人の姿が見えると、一斉に立ち上がり、「御足労、感謝いたします」と片膝を立てる形で跪き、右拳を左手のひらで抑えるような姿勢――
「ご丁寧にありがとうございます。さっそくではありますが、お話を伺えますでしょうか」
「はっ!」
なんとも元気のよい、快活な人たちだ。
本当に病など蔓延しているのか想像できないほどに。
(……あ、まただ)
嶺将軍が真っ先に「では、私から」と進み出てくれたおかげで、全員がそれに従う空気を作ってくれた。
部屋の家具の配置を変え、診察がしやすいようにしてから一度全員に外に出てもらった。
(……
動物に憑りつき、身体を弱らせ、そのうち
憑りついた動物の魂魄を喰い尽くしたあと、その身体を乗っ取り、知恵などを得ると
これが人間の身体で起こると、
嶺将軍は健康そのもの。
むしろ、
武人としてまさに理想的と言える人間だ。
その後も次々に診察をこなしていき、ついにその順番が巡ってきた。
見た目は凛としていて特に不調な箇所も見当たらなそうな青年。
だが、肩から腰にかけて、
どうやら、この
青年の内功に阻まれている。
ただ、憑りつかれたということは、どこかに隙があるということ。
「小さなことでもかまいませんので、何か自覚症状のようなものはありますか? それか、違和感を覚えるようになったきっかけなど。お教えください」
青年は困ったような顔をしながら逡巡し、「あっ、そういえば……」と話し始めた。
「数日前、物乞いの女性の遺体を見つけ、その、顔が生前の叔母に似ていたことでどうにも無視できず、道観に運んで供養をしました。そのころから、たまに空咳のようなものが出ます」
「その時、口に出しました? 『
「え、ええ、おそらく。はい」
「その女性が伝染性の病を持っていたようです。ただ、今からお出しする薬湯を毎日三回三日間飲み続ければすぐに治るでしょう」
「おお、ありがとうございます!」
青年は薬を受け取ると、笑顔で退出していった。
「……すでに女性の身体は
「そうですね。
「そうだ。鬼魄は悪鬼の前兆だ。人間の善意につけこみ、同情心を『同意』とみなし、憑りつく。目の前にあるのが動物であろうと人間であろうと、その遺体に向かって『可哀そう』と口にしてはいけないというのは、あながち迷信などではないということだな」
こうして全員の診察を終え、二人は道具をしまうと、外で待機してくれている全員を呼び戻した。
「みなさんさすがは燕国の守護神ですね。内功が強くていらっしゃいます」
「お褒めにあずかり光栄です」
嶺将軍は破顔した。
笑うと意外と可愛らしい顔をしている。
「では、安心できましたところで、お話をお伺いいたします」
「よろしくお願いいたします」
嶺将軍が話すところによると、その病が広がっているのは北方にある異民族に対する防衛線の駐屯地だという。
「異民族の奴らが嫌がらせのためによく動物の首などを置いて行くのですが、大抵は牛や馬、山羊などの、明らかに食事後だと思われるものだったのですが……。いつからか、猿の首を置くようになったのです。そのころからでした。病に限らず、不気味なことが起き始めたのは」
突然奇声を上げて穴を掘りだす者、一週間眠ることが出来ず頭を壁に打ち付け昏睡状態になった者、仲間の腕を斬りつけて血を吸いだした者、死んだ家族の霊が見えると騒ぎ出す者……。
熱に
「いったい、何が起こっているのでしょうか……。軍医もお手上げ状態なのです。しかし、このことを他国や異民族に知られるわけにはいきません。どうか、どうか知恵をお授けください!」
(
ついこの間呪われたばかりの
「では、駐屯地へ行きましょう。全員、治療します」
「お、おおお!」
嶺将軍が立ち上がるとすぐに他の者も立ち上がり、
「顔を上げてください。我々は薬術師。当然のことをするまでです」
「本当に、感謝の言葉が見つかりません……。実は、私はこのあとすぐに駐屯地へ戻る予定でしたので、ご一緒に行かれますか?」
「我らには
「おお……。江湖には秘術が多いと聞きます。では、現地でお会いしましょう。地図をお渡しいたします」
嶺将軍から地図を受け取ると、二人は
燕国が用意してくれた宿へと向かい、必要な道具をまとめると、街から出て、一番近い
空はまだ陽が落ち始めたころ。
「用意は良いか?」
「ええ。わたし、結構慣れましたよ。飛ぶの」
「なかなかの腕前だ。なんせ、私が教えたのだからな!」
「はいはい……」
お互い、
すると、陽炎のように二人の姿が消え、一陣の風が吹いた。
「行こうか」
「はい!」
夏の厚い雲が揺らめく空へ、二つの風が昇って行った。
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