物語体験のできる本屋
久河央理
第1話 異世界転生の体験を
――ふと、その本屋に入ってしまったのが全ての始まりだった。
外国を思わせるアンティークな店内に惹かれ、つい入ってしまったのだ。
「いらっしゃいませ。お求めのジャンルはございますか?」
足を踏み入れた瞬間、柔らかな雰囲気の若い女性が出迎えてくれた。清廉さから奇抜さまで、この世の全てを着こなしてしまいそうなほど、整然とした顔立ちをしている。
一目で見惚れて立ち尽くしてしまいそうなものだが、不思議とそうはならなかった。
あまりにも親しみやすさを感じさせる彼女は、緊張という文字をあっという間に取り除いてしまったのだ。
「あの、オススメはありますか?」
「そうですね、こちらの本はいかがです? きっと、素敵な体験ができるでしょう」
「異世界転生もの、か。流行りだし、ちょっと試しに……」
「かしこまりました。それでは、行ってらっしゃいませ」
「え」
次の瞬間、視界が真っ白な空間に包まれた。
それから、何があったのか。そう問われても、何も答えられない。
「どうでしたか? こちら、お好みの世界でしたか?」
そんなの知るか、というのが率直な感想だった。
五感が覚えていること以外、ほとんど思い出せない。
まるで夢の中にいたような感覚だ。なぜか十数年を過ごしてきた感触だけがはっきりとある。
「とんでもない目にあったのに、何があったのかを覚えてないのはなぜ……?」
「みなさん、同じことをおっしゃいます。物語体験とはそういうものなのでしょう」
異議を唱えるべきだろうが、そういう気分ではなかった。
「さて、お客様。ただいま体験されたこちらの本、どうされますか? 経験を紙の上で振り返るべく、購入なさいますか?」
「いや、しないかな……」
「そうですか。でしたら、こちらにサインを」
一瞬の落胆を経て手渡されたのは、一枚の契約書だった。
「体験した本を購入せずに退店されるのであれば、体験した時間をお持ち帰りくださいませ」
「はい?」
「こちらの本を購入することにより、あなたが経験したのはあくまでも『物語の世界』となります。ただ読書をしていただけで、実際の体験などしていない――という風に」
「つまり、このまま店を出れば、あっちで過ごした十数年が経っていると? 浦島太郎みたいに?」
「はい。扉を開けたその瞬間から、全てが決まってしまいます。どうかその前に」
とんでもない話だ。
「買うよ、買うしかないだろ。そんなに高値でもないし……」
「お買い上げ、ありがとうございます」
これ以上なく真っ直ぐな笑顔で見送られた。それがまた美しくて、とても悔しい。
このシャッターばかりの路地裏にも、あの異世界にも、できることなら二度と行きたくない。
けれど、もう一度と。なぜか思う自分がいる。
物語体験のできる本屋 久河央理 @kugarenma
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