恋と冒険は本屋からはじまる(かもしれない)

久里 琳

恋と冒険は本屋からはじまる(かもしれない)

(KAC20231 お題は「本屋」)



 ひと目見て、もう目が離せなくなった。

 それほど彼女のかわいさは飛び抜けていた。

 数学の問題集を買いにきたはずなのに、気づけばぼくは、洋書コーナーに立っていたんだ。


 わりとおっきな本屋だから洋書を置いてたってそりゃ不思議はないけど、こんなコーナーがあったなんて知らなかった。

 客はといえば、とびきりの美少女と、ふらふら迷いこんだぼくの、ふたりきり。

 ぼくは本なんか見ちゃいない。ずっと彼女のうしろ姿に目がくぎづけになっているから。長い髪。すらりと伸びた腕。揺れるスカート。足はまっしろでまぶしくて、このまま見つめてると天罰が下っちゃうかも。


 ずっとうしろ姿を堪能するのもいいけれど、やっぱり顔が見たいなあ。

 と思ったら彼女が振り向いた。つめたい視線。


 ぼくは天のいかづちに打たれてしまった。脳天から胸を貫いて一瞬でお尻から突き抜け、もうすこしでその場にへたりこんじゃうとこだった。ぼくの心臓はもう彼女のものだ。

 からだ全体から湯気がたって朦朧となってるぼくには構わず、彼女は背伸びして、書棚の上の方からひとつ洋書を取りだした。

 この場に居つづけるためには、ぼくもなにか本に興味あるふりをしなくちゃならない。あてずっぽに右手を伸ばす。指は勝手に、黒くておおきな本へと向かう。


「それ触っちゃだめ」

「え?」

 ぼくの手が止まる。呪文に縛られてしまったみたいに。彼女は洋書に目を落としたまま、こっちを見ない。

「ここのものには手を触れないで、さっさと帰ってちょうだい。あんたのためよ」

 とりつく島もないってつめたい声色。でもそれがうつくしくって心地よくって、できるならずっと聞いていたいなんて思ったりして。言っとくけど、Mじゃないよ。


 塑像になったみたいに動けないでいるぼくをちらと見て、はああっ、と彼女はため息をついた。じれったそうに。

「聞こえなかった? 早く行って。あんたみたいなのがいると迷惑なの。もお、ほんとにどうしてついて来ちゃったかな。ふらふらぼおっとしてんじゃないわよ」

 最後は自分を呪うみたいにふきげんな小声で言うけど、きっちり聞こえた。こんなに罵倒されるいわれはないから、さすがにぼくもむっときたね。

「ここはきみだけの本屋じゃないだろ。ぼくがどこに行って、どの本を手にとろうとぼくの自由だ、きみに指図される覚えはないねっ」

 彼女と間近で目と目が合うから、赤面しちゃって最後は早口になってしまった。まあぼくにしてはよく言った方だ。

 どうだ、反論できないだろ。


 ところが彼女は平然と言ってのけた。

「ここはあたしだけの場所よ。あんたはいま不法侵入しているの――法律なんてものがここで効くとしたらね。でもま、いますぐ出てったら目をつぶってあげる」

「ちょ、待ってよ、なに言ってんだかわかんないよ」

 だってここはみんなの本屋。いくらとびきり美少女だからってそれを占有するなんて、勝手気ままもいいとこだ。かわいけりゃなんでも許されるってもんじゃないぞ。たぶん。

「あんたと議論しているひまはないの。ひまがあってもごめんだし。けがしたくなかったらとっとと帰ってよ」

 おっとやる気か? 女に手を上げる奴なんか最低だってぼくは思ってるけど、だけれどここまでコケにされたら黙ってらんないぞ。ぼくは拳に力を入れて、身構える。その拍子に、さっきの本に、指が触れた。彼女が「触っちゃだめ」と言った本だ。


 彼女が息を飲んだのがわかった。

 ぼくは背中がおっそろしく冷えるのを感じた。

 いつからか音がまったく消えていたことにいまさら気づいた。

 背後でとてもおおきな質量と、マイナスの熱量と、不吉で不穏な空気がふくらんでいくのがわかった。


 とっくに野性を失ったぼくの本能でもふり返っちゃいけないとわかる。

 むくむく広がる黒い影が、ぼくを通り越して彼女にまでとどく。彼女はきッと唇を結んで、ぼくの背後を睨む瞳は冷たく、どこまでも勝ち気に胸をそらせて立っている――


 うしろから横殴りに飛んできたなにかにぼくが吹っ飛ばされるのと、彼女が前方へ跳ねるのが同時だった。

 書棚に叩きつけられ、意識が朦朧としながら、ぼくは彼女との戦いを茫然と見つめた。

 はぼくになんか目もくれないで、8本の腕をぶんぶん唸らせ彼女を襲っている。

 彼女は間一髪で見切ってかわして、日本刀でその腕を一つずつ斬り落としていく。どっから出たんだ、その刀?


「なにこれ……? どっきり?」

 なんてまぬけな問いなんだろ。

 彼女は心底あきれたって目をこちらへ向ける。その瞬間、力まかせに振りまわされてた腕が彼女を捉えて、こっちへ吹っ飛んできた。

 彼女をまともにぼくの体が受け止める形になって、言葉にならない叫びをぼくは上げてしまう。だってずいぶんハードなタッチだ。


「だ……だいじょうぶ?」

 やっと出た声もかすれてる。

 彼女はあっさり立ちあがって、肩と腿のあたりを、ぱん、ぱんと払った。そこってぼくと接触した部分だよね?


「あんたこそ、だいじょうぶ? 血まみれよ」

 と言われてよく見れば、たしかに服も床も血でまっかっか。

「言ったでしょ、けがするって」

 そう言い残して、彼女はまたへ向かって走っていった。スカートの裾からのぞくまっしろな足。敵は天井に届くほどの巨体に、何本もの腕。それが凄い勢いで襲いかかってきて、まるで嵐のなかに立っているみたいだ。


 ぼくは横から見ているしかない。血はまだ流れつづけている。全身が焼けるように痛くって、どこから血が出ているのかわからない。わかりたくないし。


 けがで済んだらまだいいけど、ぼく、こっから生きて帰れるの?




(おわり ・・・ たぶん、続きはありません)


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