ただ落ちてた本を棚に戻すだけの話

赤木悠

ただ落ちてた本を棚に戻すだけの話

 本屋はいい。

 趣のある古本屋の空気や匂いも好きだが、ありふれたチェーン店の本屋の雰囲気も好きだ。何か新しいものに出会えるかも知れないというワクワクを味わえる場所は私にとってそう多くない。


 虫たちが長い眠りから覚め、花粉のニュースが日本中をジャックした2月の末、今日も近所の本屋に足を運ぶ。


 何か目的の本があるわけでもない。Web小説を時たま書く私はどこかにアイデアが転がっていないか、と本を買う予定がなくてもただただ本屋の中をグルグル回ってみたりする。小説コーナーだけではなくて、漫画、絵本、学術書、文房具売り場なんかも一通りは見て回るのだ。


 高校の参考書コーナーの前を通った時に、一冊床に本が落ちているのに気がついた。近づいて見てみると、私の高校時代にもお世話になった英単語帳だった。誰かが落としたことに気づかずに去ってしまったのだろうか。


 私はかがんで、その単語帳を手に取る。さんざん使った単語帳だ。手触りこそ新品特有のものだったが、私の腕はその重さを確かに覚えていた。特段仲の良かった友人とこの単語帳で問題を出し合って勉強したのは良い思い出だ。


「くっそ。やっぱぼんやりと覚えてても書き取りできないものがまだあるな。あーもう、消しゴム落ちてそっちの椅子の下行った。悪いけど拾ってくれね?」

「『あーがった』っと。はいよ。」


「何だその『あーがった』って」

「ああ、俺ら受験生だろ。『落ちる』とかってあんまり縁起良くないじゃん。だから消しゴムも『落ちた』じゃなくて『がった』って言えば、なんか受かりそうじゃね?」


 そういって彼は笑顔で消しゴムを渡してくれたのだった。




 私は周りを見て近くに誰もいないことを確認する。

 そして小さな声で「あーがった」と言いながら、単語帳を棚に戻した。



 そろそろ国公立の合格発表だ。後輩は皆ドキドキだろう。

 今年もたくさんのサクラが咲きますように。

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