余計な想い

空野春人

よけいなおもい

 ちょうどいい日当たり、心地の良い風、人気がなく静かな環境。こんなすばらしい場所なのに誰にも邪魔されることはない。


 まさに完璧だ。


 俺は仰向けに寝転がり、日除けのために開いた漫画本を顔の上に置いた。腕で枕を作りゆっくりと目を閉じる。この時間こそが人生において最も、いや言い過ぎた。人生において五番目くらいに至福の時間だ。


「おやすみ」


 その魔法の呪文を呟くだけで意識がふわりふわりと空に浮かんでいく。意識が途絶える直前に見える幻想が俺は好きだ。今日は何が見えるだろう。


 俺はゆっくりと目を閉じた。


「ぐはっ!」


 いきなりお腹に受けた強い衝撃で俺は飛び起きた。反動で顔に乗せていた漫画が数メートル先に飛ぶ。俺のすぐ横には眠りを妨げた犯人であろうボールが転がっていた。


「おえっ。し、死ぬかと思った」


 ボールの横には誰かの足が見えた。その足から視線を上げていくと、見覚えのない女子が俺を見下していた。つまり犯人はボールではなくこいつだということだ。


「……何か用ですか?」


「……」


「屋上使いたいならお好きに……」


「……」


「あ、ここ邪魔でした?」


「……」


 なんだこいつ。なんで俺を睨んだまま何も言わないんだ?何か用か、言いたいことがあるんじゃないのか?


 あ。そういうこと?


「ハ、ハロー?アイアム……」


「……」


 まずい。英語も通じないとなると、日本語と英語くらいしか話せない俺にはもう打つ手がない。そもそも英語で俺は会話ができない。


「大袈裟に騒ぎすぎ」


「え?」


「お腹にボールが当たったくらいじゃ人は死なないから」


 睨んだまま放たれたこの上ない正論。見下されているのも相まって恐ろしい。


「確かに死にはしないけど、それくらい驚いたってことだから。それより何か用があるんですか?」


「別に」


「は?」


「寝てた人がいたからボール落としただけ」


「そんな当たり前みたいに言われても……」


「そんなに気持ちいいの?ここ」


「まあ」


「一人のくせにおやすみって言うくらいだしね」


 聞かれてたのかよ。


「一緒に寝てみます?」


「……」


 きつく尖っていた目が、一気に軽蔑の視線へと変わる。身体も気持ち、一歩下がったような気がする。


 そして自分の過ちに気付く。


「あ、いや、別に変な意味じゃなくて……その、はい」


 なんで俺は冤罪を加速させるようなことしかできないんだ。


「じゃ、昼休み終わる頃に起こしてね」


「え」


「おやすみ」


 自分でとったリアクションに反して彼女は俺の横に、そして横向きに横になった。どこまでも横が好きなやつだ。


「……」


 寝てる彼女の顔を覗き見ようと思ったが、その瞬間に目を開けられたらまずいのでやめておいた。

 だがせめてこいつの身分は確認しないといけない。同じクラスではないことは確実なので、とりあえず確認するのは学年だ。名札の色によって学年が分かるので胸元さえ確認できれば。


「……」


 こいつ。なんで向こう側向いて寝てんだよ。覗き込んだ瞬間目と目とが合ってしまえば俺と手錠との恋が始まってしまうじゃないか。年齢的にそれはないと思うけど、後ろ指をさされながら高校生活を送るのはごめんだ。


 やれやれ。


 俺は後ろに倒れこんだ。昼休みが終わるまでまだ時間はある。拾っていた漫画本を顔に乗せ、


「おやすみ」


 ため息まじりにそう呟いた。


***


「……ぐへっ!」


 つい最近受けた衝撃に、俺は案外早く再会した。腹筋に力を入れていなかったものだからシャレになれないくらい痛い。


「ちょっと、やめてくれません?それ」


 デジャヴだ。この俺を見下すような視線を見るところまで。


「これはお仕置きだ」


「は?」


「昼休みが終わるまでに起こしてって言ったよね?」


 確かに聞いた。でも別にいいじゃないか。結果的に俺よりも先に彼女が起きれたのだから。


「ん!」


 彼女が勢いよく俺の後ろの方を指さす。


「何?」


「いいから!ほら!」


 急かされて彼女が指さした方へと渋々体を反転させた。どうせなんてことのない風景があるだけだというのに。


「……うそ」


「嘘じゃない!」


 俺はいつもとは違う風景に驚愕した。いつもと違ういうのは、いつもの起きる時間とは違うということだ。今のこの風景は違う時間では見慣れているものだった。


「どうしてくれるわけ?」


 赤く染まる夕陽が情けない俺を嘲笑っていた。


「寝過ごした、ってこと?」


「見たら分かるでしょ」


 やってしまった。


 まさかに昼休みに寝て、起きたのが夕方の下校時間だなんて。こんな間抜けな話があるか?


「起こしてって言ったよね?」


 威圧的な口調に、罪悪感もあってか自然と体が萎縮していく。


「はい。言いました」


「それで?」


「あの後に俺も寝てしまって、起きたらこの時間でした」


「……はあ」


「すみません」


 起こしてと言われはしたが、俺はそれを承諾した覚えはない。ともすれば悪いのは俺だけじゃないのではないか?


「何?」


「あ、いえ、何も……」


 いざ反抗しようとしてもすぐに言葉が消えていく。


「授業をサボっちゃった責任は取ってくれるんだよね?」


「授業サボったのも寝過ごしたのもお互い様だし、もう忘れましょう?」


 ダメもとで自分の意見を言うことには成功した。お腹にボールが飛んで来たら、そのときはそのときだ。


 彼女が転がっていたボールを拾う。まずい。


「……」


 お腹に精一杯の力を入れて、俺はその時に備えた。


「それもそっか」


「え?」


「こんな時間だし、帰ろ」


 あっさり背中を向けて屋上を出ようとする彼女。もう一つだけ気になることがあったことを俺は思い出した。


「あの!」


「ん?」


「学年は、てか、名前は、ていうか」


 辺り一帯もいつの間にか赤く染まっている。


「あなたは誰ですか?」


「……一年の藤咲ですけど?」


「一年?」


「一年」


「俺、二年」


「あ、先輩だったんですか。同じ学年か私より下かと思ってました」


 同じ学年ならまだしも、一年よりも下の学年が高校にいるわけないだろ。


「なんだ、後輩か」


「なんだ、先輩か」


 そんな台詞を吐いてドアノブに手をかけた藤咲に言葉をかける。


「これからは後輩らしく敬語を使いなよ」


「これから?」


「気に入ったでしょ?この場所」


「……気が向いたら来てあげますよ」


 少し嬉しそうに出て行ったところを見るとまたここに来るだろう。俺が起こさなかったからとはいえ、昼から夕方まで寝てるのは居心地がよかったからに違いない。


 家に帰ってもこの時間は誰もいないし、することもない。ここでもうひと眠りしてからにしよう。


「おやすみ」


 この場所でその一言を言える毎日に俺は心酔していた。時間は限られてる、地面は固い、雨の日は使えないなどの条件があるのが少し残念だ。だけど、我慢したらその分楽しみも増えるということだ。


 などと呑気だった俺はその日の夜に母親に、次の日の朝に担任にこっぴどく説教された。


***


「先輩って友達いないんですか?」


「いなくはない」


 藤咲が初めてこの屋上に現れてから一か月が経つ頃には藤咲もだいぶ丸くなっていた。というより、今の藤咲が本来の藤咲なのかもしれない。


「今日は私が寝るんで先輩は起きててくださいね」


「はいはい分かりましたよ」


 藤咲もこの場所が気に入ったらしく、俺のお気に入りのポジションを奪うことも多々あった。というよりほとんど毎日だ。


「じゃあおやすみ」


 俺の決め台詞まで取ってしまう始末だ。初日のようなミスを犯してしまうわけにもいかないので眠ることはできない。

 手持無沙汰になった俺はいつも日除け代わりにしている漫画本を開いた。


「……」


 もう何十回も読んでしまったのでさすがに飽きた。




 ぐぅーーー。




「ん?」


「あ……」


 何の音かと思ったが、どうやら藤咲のお腹がなったらしい。ボールが当たっ

た音じゃなくてよかったもんだ。


「眠いの次はお腹減った、か。忙しいやつだな」


「弁当を忘れたんです。どうぞお気になさらず」


 素直じゃないところは今でも変わらない。

 俺は立ち上がって隅の方に置いてある自分のバッグを拾い、中からポテトチップスを取り出した。コンソメ味だ。


「はい。これしかないけど」


 藤咲が体を起こして目を輝かせる。


「俺の非常食だけど半分あげる」


「いいんですか?あざまーす」


 これで俺が寝てもいいだろう。


「……」


 すぐ隣でムシャムシャ聞こえるせいか、頭が冴えていていつものように眠れない。


「毎日ここに来てるけどさ」


「はい?」


「藤咲はクラスとかに友達いないのか?」


「いませんよ。そんなの」


 こっちを見ないままで藤咲が言う。

 俺も一年以上この高校で過ごしているが友達は片手で数えられるほどしかいない。昼休みには必ずどっか行くし、教室でも寝てばかりいるだから仕方ない。それにもともと俺は人付き合いが上手い方ではない。


「そっか」


「どうせ、いなくなるから……」


 藤咲が小さな声で呟いた。その言葉の意味を俺は追及しなかった。


「もうないんですか?」


「いや、食べ物はもう……」


 藤咲はポテトチップスの袋をさかさまにして揺らしながらこっちを見ていた。


「おまっ、まさか全部食べたのか?」


「はい」


「半分だけって言ったろ!」


「そんなこと言いましたっけ?」


「言った」


「もう食べちゃったんで。忘れましょう」


 袋の中を覗き込んでもカス一つとして残されていなかった。


「ここで食べるの楽しみにしてたのに……」


「まあまあ。これでおあいこってことで」


「確かに」


 また買えばいいか。俺はカラの袋をバッグに詰め込んだ。


「なんかいいですね。こういうの」


「何が?」


 藤咲が寂しげな顔で目を逸らした。


「……」


 藤咲が笑うことはめったにない。ノーマルの顔ときつく睨んだ顔の二パターンのブラック労働だ。藤咲も人付き合いが苦手なのかもしれない。


「じゃあ行きますね。授業始まるし」


「俺も行くよ」


 藤咲が俺をきつく睨んだ。


「三十秒後で」


「……分かったよ」


 これもいつものことだった。藤咲が屋上を出てから三十秒後に俺が屋上を出る。なんでも、俺と一緒にいたと思われたくないらしい。友達もいないくせに何を気にしてるんだか。


 友達。


『なんかいいですね。こういうの』


 まさかあいつ。


「やれやれ」


 三十秒が経ったのを確認して俺は屋上を出た。

 藤咲が屋上に来るようになってから屋上で寝る時間が、おやすみと独り言を言うことが大幅に減っていた。


***


 ガタン!


 勢いよく開かれたドアの音で目を覚ます。ドアの音にしても音が大きすぎて、ビクッとした俺の体は少し跳ねた。


「先輩!」


 いつもよりさらにきつく睨んだ藤咲が立っている。


「どしたの?」


「先輩ですよね?あんなことしたの」


「あんなこと?何のこと?」


 下手くそなラップみたいに韻を踏んだ俺の質問返しで藤咲の顔がまた恐くなる。

 藤咲の言うあんなことに俺は心当たりがあった。




「藤咲って人知ってる?」


「知ってますけど、話したことはないですよ?」


「教室ではどんな感じなの?」


「いつも寝てるか、携帯いじってて、私に関わるなって感じです」


「やっぱりか……」


「それがどうかしたんですか?」


「根はいいやつなんだ。あいつの友達になってくれない?」




 藤咲のために数少ない人脈を辿って、やっと辿り着いた後輩に俺はそうお願いした。聞いた話によると昨日は一日中一緒にいたらしく、放課後には遊びにも行ったらしい。


「楽しかったろ?」


「……」


「友達になれそうか?」


 俺の気遣いに藤咲は喜ぶものだと思っていた。顔に出さなくとも、心の中で喜んでいるものだと思っていたのに。


「余計なことしないでください!」


 俺をきつく睨んだまま、藤咲は叫び続ける。


「なんだよ?うまくいかなかったのか?それとも合わなかった?」


 俺の前に座るよう促すと、藤咲は素直に従った。


「どうしたんだよ?」


「あの人たちはとてもいい人です。仲良くなれるかもしれないと思ったのも事

実です」


 なんだ、やっぱり喜んでるんじゃないか。


「いいことじゃん、このままいけば……」


「前にも言ったでしょ。どうせいなくなるんです」


 確かに少し前にそんなことを言っていた。


「そんなことないって。後輩たちも藤咲のこと気に入ってたし、仲良くなれそうだって言ってたけど」


「どうせいなくなるから……」


 俯いた拍子で表情が長い髪で隠れ、読み取れない。


「もう二度と余計なことはしないでください」


 それだけ言い残して、藤咲は屋上を出て行った。


 余計なこと?余計なことってなんだ?友達が欲しそうに見えたから気をまわしただけなのに、それが余計なことか?

 屋上で寝ること以外の楽しさを教えてくれたから恩返ししようとしたのに、余計なこと?


「なんなんだよ」


 俺は足を延ばし仰向けで横になった。そして流れ作業のように漫画本を顔の上に乗せる。たった一か月くらい前なのに、この行動はとても久しぶりのように感じた。頭のごちゃごちゃが消えない。


 こんな時はあの言葉しかない。


「おやすみ……」


 いつもならすぐに意識が遠のいていくはずなのに、目も頭も冴え続けていた。眠れない。目を瞑ると藤咲の顔と言葉が浮かぶ。


「くそっ」


 結局その日は読み飽きたはずの漫画本を読んで時間を潰した。


***


「四日目か」


 藤咲が屋上に来なくなってから四日目。たった四日のはずなのに、藤咲が一か月よりも遥かに長く感じた。この五日間は一人でいるのに少しも眠れなかった。バッグにタオルを入れて枕代わりにしてみても、寝方を少し変えるなど多少の工夫をしても変わらない。


 夜はちゃんと寝てるので違うとは思うが、俺はほとんど不眠症のようになっていた。


 屋上に置いてる漫画本は二冊増え、バッグの中には常に二袋のポテトチップスが入っている。どこか空いた穴を埋めるように。

 辺りが赤く染まる夕方に屋上のドアを開けても誰もいない。どんなにおやすみという言葉に縋っても景色は変らない。現実が少しずつ夢から離れていく。


「飯食うけど、お前はどうする?」


「ああ、俺も食べよ」


「え?」


「なんだよ?いいだろ?飯くらい食べたって」


「いつもは一人で屋上に行くくせに今日はここで食うのか。めずらし」


 藤咲を怒らせた原因が俺に分かるなら、余計なことの意味を俺が知っていたなら、反省も後悔も謝罪もできる。俺にはその原因が分からない。解決方法が分からなければ問題は解けない。


 本当に俺が悪いのか?


 そう開き直りかけている俺もどこかにいた。


「これ職員室に運んどいてくれないか?」


「え、俺がですか?」


「他に誰がいる?」


「いや他にも……」


「授業サボった罰だ」


「……」


 それを言われてしまえば返す言葉はないが、何も二か月くらい前のことを持ち出さなくても。この調子でいけばサボりを盾に一年間はこき使われそうだ。


「……分かりました」


 今は用事もないし、退屈だから別にいいか。


 クラス全員分のノートともなれば一人で持つのはなかなかに重い。ちょうど暇だし、この退屈な時間を機に筋トレでも初めて見るのもいいかもしれない。そんなことを考えるのは一体何回目だ?何かを初めては一週間も続きはしない。そんなんだから退屈が増えるんだろう。


「……まいった」


 職員室には着いたが、開かずの門が行く手を阻む。ノートに手を塞がれたま

まではドアが開けられない。足では開けられそうもないし、誰かが出てくるか入るのを待つしかない。


「……」


 なんとも間抜けな光景だ。困ってるのにドアを開けようとしないやつらの好奇の目がやけに突き刺さる。


「失礼します」


 お、人が出てくる。通行の邪魔にならないようさっと横に移動する。


「……あ」


「ん?あ」


 二か月ぶりに視線が交わる。相変わらず尻込みしてしまいそうなきつい視線だ。藤咲がすぐに視線を逸らす。


「ちゃんと恩は返してくださいね」


「恩って……あ、おい」


 俺の話も聞かずに、ドアを開けたまま藤咲は去っていった。


「……」


 早く用事を済ませればまだ間に合うかもしれない。早歩きで担任の机に向かう。


「持ってきました」


「すまないな。そこに置いといてくれ」


 最後の力を振り絞ってノートの山を机に置く。実はけっこう限界が近かった。


「それじゃあ……」


 俺はこの時になって、やっと藤咲の言葉の意味を知る。


 藤咲が怒った理由も、あんな顔した理由も、屋上に来なくなった理由もすべて分かってしまった。こんな形で聞いてしまうのは不本意だけど、聞き耳を立てずにはいられない。

 一つのことに集中したらそれしか見えなくなると言うが、それは聴覚でも言えることなのだろうか。視覚に集中するのではなく聴覚に集中したらそうなるのだろうか。


 俺に集中力は皆無だ。今でも別の声が聞こえる。聞きたいことが聞ければそれでいいから。


「藤咲とは何の話だったんですか?ずいぶんと深刻そうな顔に見えたんですけど」


「ああ、藤咲さん、また転校することになったらしいの」


「転校?まだ来て二か月しか経ってないのに?」


「そうなのよ。本人はもう慣れたからって言ってたけど」


「なんか、かわいそうですね……」


 転校、確かにそう聞こえた。「また」とも「もう慣れた」とも。そして藤咲が誰であるかも分かっていた。

 


『どうせいなくなるから』



 あの日の藤咲の言葉が俺の思考を縛り付ける。


 俺はてっきり周りが藤咲の傍からいなくなるのだと思った。だから俺はそんなことないと言った。まさかその言葉の意味を捉え間違ってるとは。

 藤咲の気持ちを考えれば俺のやったことは確かに余計なことだ。やっと謝る理由が見つかった。


 俺は職員室を出た瞬間に走り出した。教師に見つからないように。


「やっと捕まえた」


 驚いた顔の藤咲と目が合う。どうせすぐに睨んでくるつもりだろうが、それでかまわない。


「話がある。放課後いつもの場所に来い」


 それだけ言って俺は藤咲に背を向けた。


***


「転校するんだってな」


「……」


「たまたま職員室で聞いちゃってさ。友達も全然いないし、もちろん誰にも言ってない」


「……」


「この学校にも転校してきたばっかなのに」


「……」


「せっかく友達もできそうなのに、残念だな」


「……もう慣れました」


「……」


「うちはいわゆる転勤族で、転校も十回以上しました」


「……」


「慣れてるから、大丈夫です」


「嘘つくなよ」


「嘘なんか……」


「慣れてないくせに。何をそんなに強がる?」


「強がってませんよ」


「慣れてないから、転校が辛いから友達を作ろうとしないんだろ?余計なこと

なんだろ?」


「……」


「別れが辛くなるから」


「……誰も別れに慣れたなんて言ってないじゃないですか。私が慣れたのは転

校に、です」


「転校は要するに別れだ。一緒だろ?」


「自分勝手な解釈ですね、それ」


 初めて俺たちはお互いに立ったままで話した。また、夕焼けで辺りが赤く染まる。


「いつ転校するつもり?」


「明日で最後です」


 本当に急な話だ。


「後悔は?」


 違う。俺が退屈な日常に甘えてのんびりしてただけだろう?


「たった二か月ですよ?あるわけないじゃないですか」


「そうか」


「せっかく仲良くしてくれたのに」


「余計なことしたのは俺だから。俺からちゃんと謝っとくよ」


 転校すると知ったらあの後輩たちも仕方ないと許してくれるだろう。


「そうじゃなくて……」


「ん?ああ、自分から言いたい?」


「……」


 黙り込む藤咲。こいつもそれなりに申し訳なさを感じていたということか。事情を知ってしまった今、藤咲のことを責めることはできない。


「それにしてもよかったな」


「何がですか?」


「あの日、ここで会ったのが俺で」


「そう、ですね」


 惜しむのはいつだって、大切な人との別れだけだ。嫌いな人間との別れなら惜しむことなく清々しく終わることができる。


「一番話した相手が俺だから。嫌いな人間だから」


 言いながら俺は眠る前のような、どこか意識がふわふわ浮かんでいく感覚に襲われていた。それでも体は石のように重い。


「後悔なく別れることができる」


「……」


「ま、なんで嫌われてるかは知らないけどな」


 最初から今でもずっと、藤咲は俺のことが嫌いだったんじゃないかって思う。俺の前で笑ったことなんかなかったし、むしろ睨んでたし。転校のことも言うつもりはなかったに違いない。


「なんでそう思うんですか?」


「さあ」


 そう考えればここにいたのが俺で本当によかった。


「明日も屋上に来るだろ?」


「……」


「ほら。お菓子が余っててさ、一人じゃ食べきれそうにないから」


 藤咲は一言も発そうとしない。なんで最後の日にお前なんかと、そう思って不快に思ってるのかもしれない。それでも俺は構わず続けた。


「記念とでも思って手伝ってくれ」


 もしも横に首を振ったら、その時はお菓子を手渡しすればいい。もともとそのために用意したものだ。


「……分かりました」


「助かるよ」


「私優しいので。馬鹿な先輩のために来てあげますよ」


 こうして俺たちはお互いの最後の日を約束した。誰にとって、そして誰のための記念なのか。


「約束な」


 小指を結んだ俺たちの影は、どこまでも高く伸びているように見えた。


***


「よし!最後くらい盛り上がっていくか」


「え、別にいいです」


「そ、そうか。いろいろと用意したんだけど」


 いろいろと用意したと言っても学校内だから制限も限界もある。屋上に教師が来ることはないだろうが、それまでの道のりで見つかることもある。


「いろいろ?」


「お菓子、ジュース、あとはクラッカーもあるぜ?」


「クラッカー?大きな音出したらダメでしょ」


「そうだけどさ、雰囲気だよ」


 お別れ会なんてやったこともないので、こういう時になんて言うべきか分からない。


「えっと、雨降らなくてよかったね」


「……」


「お、初めて食べたけどこれうまいな。また今度買おうっと」


「……」


「それにしても……」


「先輩。無理に話そうとしなくてもいいですよ」


「無理に、見える?」


「はい」


 こういう時にうまく話せないから俺は人付き合いが苦手なのだ。人気者たち

は普段何を話してるんだ?


「最初の日みたいですね」


「……確かに」


「先輩が無理やり話しかけて、私はそれを無視して」


「やっぱり無視してたのかよ」


「英語なんか話し始めたときには頭おかしいんじゃないのかって思いました」


「何も反応しないからだろ?すごい睨んでたし」


「先輩のくせに敬語使ってましたしね」


 だんだんと話が弾み始める。藤咲は本当は人付き合いがうまいんだろうな。


「あんな態度とられたらみんなそうなる」


 けど、その境遇のせいでうまくいかないことばかりで、窮屈な日々を送ってしまっている。


「それはすみません」


 人と仲良くならないように生きるのであれば誰だってあんな風になってしまう。常に敵意しかない相手と仲良くしようとする人はいない。


 あれ?でも俺は……?


「そういえば最近は先輩のおやすみが聞けてませんね」


「藤咲がずっと寝てるからな」


「そうでしたっけ?まあ、授業サボっちゃまずいですしね」


「そうだな」


「でもこれで」


 俺は一度でも藤咲を拒絶しただろうか?


「私は今日で最後なので」


 それどころが俺は、藤咲と未来の約束ばかりを?


「心置きなく、ゆっくり寝ることができますね」


 俺は藤咲にとって余計なことばかりしてしまっていたのか?


 余計なことばかりでなく、藤咲にとってのいやがらせを俺はしてしまっていた?


「ごめんな」


 吐き出した息とともに、そんな言葉が不意に口から出ていた。


「どうしたんですか?急に」


「俺って余計なことばっかしてたなと思ってさ」


「ほんとですよ」


 藤咲を拒絶しない相手が俺でよかった。藤咲が嫌いな、俺でよかった。


「せっかく見つけた特等席を独り占めしてるし、仲良くしないようにしてるのに友達作らせようとするし、関係ない人たちまで巻き込むし、ほんと最低ですよ」


「だよな」


 もうすぐ昼休みも終わる。最後までこうなるとは、やっぱり俺は人付き合いが下手だ。中途半端に終わるくらいなら、いっそのこと殴られてしまおうか。


「先輩」


「ん?」


「私に、まだ返してない恩がありましたよね?」


 恩とは職員室のドアを開けてくれた時のことだろう。そんな話を持ち出さなくたって償うべき罪があるというのに。


「お母さんにお願いしたら、私だけ電車でここを出ていいってことになったん

です」


「うん」


「だから、見送りに来てくれませんかね?」


 なんで本当の最後を俺に頼むのか分からなかった。嫌なやつを最後に見て、早くここでのことを忘れるためだろうか。どんな理由であれ、恩を返すために頷こうと思った。


「……」


 頷く前にそっと告げられた電車の時間は、俺が学校にいなければいけない時間帯だった。頭をフル回転させるが答えが見つからない。


「……なんてね」


 藤咲が後ろを向いた。


「冗談に決まってるじゃないですか。先輩が困るところを見たかっただけですよ」


 おどけたような口調で言葉を紡ぐ。


「学校を二度もサボっていいわけないでしょう?そこは無理だって即答しないと」


「……ごめん」


「さ、もう授業が始まるので教室に戻ってください。今日くらいは先輩が先でいいので」


 顔を見せないように振り返った藤咲が俺の背中を押す。


「お、おい」


「いいから。じゃあね、先輩」


「ふじさ……」


 ドアに言葉を遮られ、藤咲の顔までも見えなくなる。すぐにドアを開けようとドアノブに手をかけると、ドア越しに人の気配を感じて俺の動きが止まる。


 きっと藤咲がドアに寄りかかってる。


「……」


 俺はドアノブから手を放し、屋上に背を向けた。



***


「おやすみ」




 また独り言ですか?




「!」


 飛び起きたせいで漫画本が顔から落ちる。当たり前に、そこには誰もいない。バッグの中にはお菓子がまだいくつか入っている。


「持って帰らなかったのか」


 それにこれも。


 俺はバッグの横に転がっていたボールを手に取った。藤咲が初めて会った日に俺のお腹に部落としてきたボールだ。たった二か月前が懐かしい。


『見送りに来てくれませんかね?』


 冗談だと藤咲は言っていたが、俺には本心を言っているようにも思えた。


 どんな言葉にだって意味はある。言葉通りの意味だけでなく、その裏に隠された意味が存在する。それはきっとその人の表情に出る。


 あの時、藤咲の表情は。


「……これは?」


 転がっていたこのボールには誰かの筆跡で文字が羅列されていた。


「……」


 その文を読んだ瞬間、手放したボールと引き換えに落ちていたマジックペンを拾って立ち上がり、そして走り出した。

 もうすぐ授業が始まるのもお構いなしに靴箱で靴に履き替え、ダッシュで校門をくぐる。教師に見つかっても走り抜けるつもりだったが、幸いにも教師には見つからなかった。




 先輩。たった二か月間だけど、ありがとうございました。

 邪魔してすみません。これからは独り占めも独り言もご自由にどうぞ。


                            藤咲




 ボールに書いてたせいで字は綺麗ではなかった。読み取りづらい箇所もあった。文章も冷たいし、俺のことを嫌いだとしても他に書きようがあるだろ。


「ハアハア」


 呼吸が苦しい。心臓が働きすぎて爆発しそうだ。


「クソ……」


 足も段々と重くなってきている。小さな石ころにさえ躓いてしまいそうだ。


 それでも走るのを止めるわけにはいかない。

 携帯も屋上に忘れた。ポケットに入れとくと横になるときに邪魔だからいつもバッグに入れていて、そのまま来てしまった。


 時間が確認できない。


「ハアハア」


 こんなに走ったのいつ以来だ?もう倒れそうなんだけど。



 あーあ、バカだったなあ。



 最初からあの質問に頷いていればこんなことにならなかったのに。あいつが、あんな顔することはなかったのに。


「ハアハア……見えた」


 駅に入り込む。あたりを見渡しても藤咲は見当たらない。まさかもう改札をくぐってしまったのか?


 自動改札の上に駅員まで見張っている。さすがに強行突破はできそうにない。


「……ラッキー!」


 奇跡的にポケットに三百円弱入っていた。コンビニで買ったお菓子のお釣りだ。


 間に合ってくれ!


 券売機で一番安い切符を買い、急いで改札を抜ける。平日だからか、お昼だからかあまり人はいない。それなのに藤咲の姿が見つからない。ホームが違ったのか?


「ハアハア」


 息切れが止まらないのに呼吸を整える時間もない。

 ホームにアナウンスが響き渡る。藤咲が乗る電車がまもなく到着すると告げるものだった。こっちも時間がない。


 どこにいるんだ?


 電車がホームに走りこんでくる。ここで後悔を残したまま終わってしまうのか?


「……」


 諦めかけたその時、誰かがベンチから立ち上がって前に歩き出した。そのベンチは俺の位置からじゃ自動販売機が邪魔して見えない死角だった。


「そんなとこに、いたのかよ」


「……先輩?」


「なんで並んで待ってないんだよ」


「なんでここに……?」


「なんでって、自分で言ったんだろ?見送りに来てほしいって」


「学校は?」


「そんなことは別にいいだろ?俺も伝えたいことがあったからさ」


 電車がホームに到着する。


「この二か月間、いや正確には一か月ちょっとだったかな。藤咲といられて楽しかったよ。俺の方こそありがとう」


 俺は何を言ってるんだ?伝えたいのはこんな言葉じゃないだろ?


「いえ……」


 伝えたい言葉が喉につっかえて呼吸の邪魔をする。息苦しくてしょうがな

い。


「……」


 藤咲も何か言いたそうにしているが口に出せないでいる。


 止まった電車の扉が開く。


「ほら」


 いつまでも電車に乗り込もうとしない藤咲の背中を押す。本当は俺も、誰かに背中を押してもらいたかった。


「先輩」


 電車に乗った藤咲と目が合う。初めて見た尖った目ではなく、温かく優しい目をしていた。


 なんでそんな目で俺を見るんだよ。せっかく耐えてるのに。


「向こうでも頑張れよ」


 電車のドアが閉まる。もう、言葉は届かない。


「……」


 藤咲の口が動いたが俺には聞こえなかった。


「藤咲」


 もしもの時のために保険をかけておいてよかった。もしかしたら最初からこのつもりだったのかもしれない。藤咲を困らせないように。


 俺は笑った。不器用な笑顔で。


「じゃあ……」


 手を振るために挙げかけた左手を俺は不自然に止めた。そしてすぐに左手を強く握りしめる。


 だめだ。


 軽く目を瞑って俯き、俺は左手を下ろした。


 

 コンコン。



 小さな音に顔を上げると藤咲と目が合った。おそらく電車のドアについている窓を軽く叩いたのだろう。


「聞こえないよ……」


 藤咲の声も俺の声も届かない。だけど、藤咲は笑っていた。


 電車がゆっくりと動き出す。


「じゃあな」


 俺は最後に笑って、握りしめた左手を隠しながら右手で手を振った。


***


 いつの間にか電車は見えなくなっていた。


 本当にこれでよかったのだろうか。


 きっと俺たちは本当に伝えたかった言葉を、何一つ伝えられなかった。


 そんな思いを吐き出すようにゆっくりと息を吐く。

 伝えたい言葉は伝えられなかったけど、伝えなければいけない言葉は伝えられた。今はそれだけでいいじゃないか。


 そんな風に思い込まないと今の俺は立ってすらいられない。


「ははは……」


 ご自由にどうぞなんて言われても、もう今までのように屋上で眠れるはずがない。屋上で目を瞑るだけで思い出してしまうから。 


 ちょうどいいか。


 うまくいくかはわからないけど、屋上に行くよりもっと他の誰かと話してみよう。


 ちょうどいい温かさの中に心地の良い風が吹く、昼寝をするのに最適な日。そんな日に俺は昼寝よりも大切なことを見つけた。


 左手をもう一度握りしめる。


「よし、そろそろ帰るか」


 握りしめた左手の力を抜いて俺は改札の方へと歩き出した。



 開かれた左手には『好き』という二文字が書かれていた――。


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余計な想い 空野春人 @sorhar

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