本物、偽物
斧がなくなった。
銀父が売ったのだろうか?いや、ありえない。あんなに「女神のご加護が」と言っていた銀父が、あれを換金するはずがない。
寧は何もなくなったその場所を凝視した。そして、濡れた床を視線でたどっていく。 敷布の上を横切り、土間を濡らし、外へ出ていく。
「……なに?」
妙なざわつきが寧の心臓を押さえつけた。何か得体のしれないものが、この家にやってきて――高価な斧だけを盗んでいったようだったから。
「なんなの……?」
銀父は帰ってこない。とっぷりと暮れた日が夜を知らせても、銀父は――。
寧は急に心細くなってきた。銀父が居ない家がこれほどさみしく恐ろしいものだとは思わなかった。。とりあえず、濡れた床を拭き、なくなってしまった斧のことを知ったら銀父はどう思うだろう……などと考えて思考を濁す。
きっとガッカリするに違いない。それとも寧のことを疑うだろうか?でも寧は斧に触れてすらいないのだ。
「どろぼうが入った……?でもまさか」
その時、
前触れなく、「父」が帰ってきた。
「おい寧。ひっく」
「銀父……?」
父は、酒瓶を抱えていた。ひどく酔っぱらっているようだ。腰には袋が下がっていて、父が揺れるたびにじゃら、じゃらと音を立てる。ひょっとして――本当に銀父は斧を売ったんだろうか?売って、かつての楊のように、博打や酒ですってしまったんだろうか?
「斧、売ったの?」
寧は恐る恐る聞いた。父は「あん?」と一度聞き返し、寧に言い放った。
「あんなもんがあるならさっさと金に換えちまえばいいんだよ。使いもしねえ斧が何の役に立つって言うんだ」
「そ、それも、そう、よね……?」
しかし、なんだか様子がヘんだ。らしくない。寧が普段と違う父をどう扱うか迷っている間に、父はあたりを見渡して、憤然と言った。
「ひっく。俺の酒瓶はどこにいった?俺の、
寧は凍り付いた。銀父、では、ない。
銀父ではない!
「おい、なんだ!俺が帰ってきたってのにおかえりもなしか!偉くなったもんだな!」
「あ、あ……」
楊だ。楊が帰ってきた……?
「寧!飯はどうした、飯。……飯!」
酔った父は床に座り込むとうつむき、わずかに吐瀉した。その汚いもののなかに、金箔が混ざっていた。
「嘘……!」
うそだ、うそだ、うそだ、そんなのうそだ、だって楊は。
寧が殺したのに!
「ああ、出ちまった、もったいねえもったいねえ……」
寧はあわてて
「――、おい寧!寧!はは、追いかけっこかあ?」
背後から追いかけてくる酔いどれの父は、その割に足が速かった。恐怖で喉に声が張り付いている。息がうまくできない。ひきつけを起こしたように苦しい喉で、誰か、誰かと助けを求める。
誰か。
湖に向かって走る。沓が片方脱げて転がっていく。
誰か。
思い描く面影は一つだけ。
誰か。
「
寧は木の根に躓いて派手に転び、肘と腕を擦りむいた。足音が近づいてきて、寧の髪の毛をむんずと掴む。
「痛っ……」
「逃げるなよ。なぁ。寧。俺に言うことがあるんじゃないのか」
「……なに、が」
「お前は俺を殺したろう」
父の目は暗い闇の底の色をしていた。責めるように寧の髪の毛をゆする。音を立てて毛が切れる。寧はうめいた。
「うう、う……」
「それで、俺の
「放して、放してっ!」
――助けて。
「どの口が!この
頬を殴られる。寧は地面に放り出され、顔から落ちた。
「どうせその偽物のことも
「誘ってなんかいない!」
寧は叫んだ。「ふざけるな、誰も望んでない!あんなこと!あんなことッ!」
「うるさいっ!」
かすれて裏返る声を封じるように、口を押さえつけられる。あごを掴まれ、地面にたたきつけられる。痛いと叫ぶ間もなく、父が激高した。
「お前は俺のもんだろうが!」
これから何がはじまるか、寧は悟った。張り裂けんばかりに声を張ろうとするが、ここは湖のほとり、誰も居ようはずがない。
――だれか。
男がのしかかってくる。寧は涙にぬれた目を閉じた。目を閉じて居さえすれば、そうして待てば、ことが終わると知っているから。
何分経ったろうか。
――ガンッ!
重たい音が響いて、父は寧の上から吹っ飛ばされた。目を開くと、そこには血まみれの木こりが立っていた。
「銀父……?」
「寧、ごめん、遅れてごめん、遅くなってごめん」
鉄の斧は血にまみれ、銀父は目を真っ赤にして泣いていた。服も頬も血で汚れていた。
頭を斧で殴りつけられて吹っ飛ばされた父は完全に、絶命していた。確かに、死んでいた。
「ごめん。ぼくから守れなくてごめん」
寧を抱きしめようとして躊躇う腕が、迷子になったように垂れる。泣きじゃくる男は、斧を取り落として泣き崩れた。
「……ごめんよう、寧、ごめん、何もできなくてごめん」
「銀父」
寧はよろよろと立ち上がって、銀父の手を握ろうと手を伸ばした。
「いいのよ、いいの、こうしてきてくれてうれしい。こうして、……助けてくれて」
うれしい、と再度繰り返そうとした寧の指先で、
銀父の腕が、
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