銀の父
紫陽_凛
父を殺した日
桜花爛漫の春の夜、甘い花の匂いの中で、寧は薄衣を着て、
ぽかん、とした小汚い男が、清涼な水の中にどっぷり沈んでしまうのを、寧はただ見つめていた。沈んで見えなくなった後も、乱れた髪と脱げかけた服のまま、ぼうっと眺めていた。
「ああ、」
明日からは自由だ。寧を阻む邪魔者はいなくなった。しかし。
「……どうしよう」
小さな声は春風にかき消される。寧はようやく空を見上げた。月夜に桜花の花びらの舞う美しい夜だ。ここ数年、「父を殺す」その一念で生きてきた寧は、行き所を失くしてしまった。大目的を失った寧は、空虚なまま月を見上げた。
目的を果たすためとはいえ、娼婦のような格好をするのも嫌だったし、そうでなくとも寧を見る楊の、あのじっとりとしたまなざしに晒されるのも我慢ならなかった。そして極めつけのあの、手。服の間に忍び込む汚らしい手! ……けれど仕方がないのだ。すり減ったもののことを考えても、どうしようもない。過ぎたことなのだから。
不意に――すっかり擦り切れた寧の前に、光が降って湧いた。
湖の中から音もなく美しい女が姿を現す。はげしい春風、花吹雪の中に、女はやわらかな微笑みを浮かべ、慈愛のまなざしを寧に注いだ。
神様。瞬時に寧はそう思った。
神様だ。
湖におわす女神さまだ。
昔から言い伝えられている、処女神様だ。
そんな清い女神の御もとへ、なんて汚いものを落としてしまったのだろう。
「ああ、女神さま。……
寧は涙を流した。あまりに女神が美しかったから、そして、その女神にとがめられていると感じたからだった。
「告白いたします、この寧は、父たる楊を……」
女神はすべてを許してしまいそうな声音で、寧を遮った。
「あなたが落としたのはこの金の父親ですか。それとも銀の父親ですか」
思わず、寧は言葉を失った。
女神が引っ提げているのは、書いて文字の通り、金色の楊と銀色の楊だった。
「心清い者ならば、おのずとわかるはずです」
女神は諭すように言った。
「金や銀などよりも、尊いものがあるということを……」
「私が落としたのは銀の父です、女神様」
寧は即答した。
「金を選ぶなど、
女神はしばし沈黙した。そして、寧の瞳が揺るがないことを確認すると、そっと銀色の楊を桟橋の上に落とした。そして、無言のまま、湖の奥へと沈んで行ってしまった。
残された銀色の楊は、銀の貼られた歯をむき出した。
「やあ、寧。はじめまして。
「……どうも」
純銀ならまだ使いでがあったのに。銀の父は、動くたびにぽろぽろ銀箔を落とす。そして中から、ちょっとはきれいに見える楊が現れるのである。
寧はがっかりした。
「その、ええと……父さん。その落とした銀、全部拾ってね」
「よし、まかせてくれ、寧」
そう元気にうなずく銀の楊から、ぼろりと銀の塊がはがれて湖にぱしゃんと落ちた。あわてて湖をのぞき込む父親を制する。
「いいわ。しょうがないもの……」
「そうか。寧が言うならそうなんだろう」
悪い夢を見ているようだ、と寧は思った。
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