銀の父

紫陽_凛

父を殺した日

 ニンが父を殺すと決めたのは三年前のことである。


 桜花爛漫の春の夜、甘い花の匂いの中で、寧は薄衣を着て、ヤンを湖のほとりに呼び出して高い酒をふるまった。この楊という男はたいそう酒とに弱い、どちらもを満たしたこそがだった。月は煌々こうこうと輝き春風はやわなびき、湖の中央まで伸びている桟橋の上で、楊が気をよくしての肩を抱いてその乳房を掴んだ時――寧は彼をいざなう振りで、思い切り湖の方に押してやった。

 ぽかん、とした小汚い男が、清涼な水の中にどっぷり沈んでしまうのを、寧はただ見つめていた。沈んで見えなくなった後も、乱れた髪と脱げかけた服のまま、ぼうっと眺めていた。


「ああ、」


 ようやく、という達成感よりも、徒労感とろうかんの方が大きかった。明日からまた「生活」が始まる。を葬ったところで、寧の抱える借金が減るわけでもない。そしてマイナスプラスになったわけでもない。寧の生活は、父の死によってようやくゼロに均されただけである。

 明日からは自由だ。寧を阻む邪魔者はいなくなった。しかし。


「……どうしよう」


 小さな声は春風にかき消される。寧はようやく空を見上げた。月夜に桜花の花びらの舞う美しい夜だ。ここ数年、「父を殺す」その一念で生きてきた寧は、行き所を失くしてしまった。大目的を失った寧は、空虚なまま月を見上げた。

 目的を果たすためとはいえ、娼婦のような格好をするのも嫌だったし、そうでなくとも寧を見る楊の、あのじっとりとしたまなざしに晒されるのも我慢ならなかった。そして極めつけのあの、手。! ……けれど仕方がないのだ。すり減ったもののことを考えても、どうしようもない。過ぎたことなのだから。

 不意に――すっかり擦り切れた寧の前に、光が降って湧いた。

 湖の中から音もなく美しい女が姿を現す。はげしい春風、花吹雪の中に、女はやわらかな微笑みを浮かべ、慈愛のまなざしを寧に注いだ。

 神様。瞬時に寧はそう思った。

 神様だ。

 湖におわす女神さまだ。

 昔から言い伝えられている、処女神様だ。

 そんな清い女神の御もとへ、なんて汚いものを落としてしまったのだろう。

「ああ、女神さま。……わたくしは父を殺しました」

 寧は涙を流した。あまりに女神が美しかったから、そして、その女神にとがめられていると感じたからだった。

「告白いたします、この寧は、父たる楊を……」

 女神はすべてを許してしまいそうな声音で、寧を遮った。


「あなたが落としたのはこの金の父親ですか。それとも銀の父親ですか」


 思わず、寧は言葉を失った。

 女神が引っ提げているのは、書いて文字の通り、金色の楊と銀色の楊だった。


「心清い者ならば、おのずとわかるはずです」

 女神は諭すように言った。

「金や銀などよりも、尊いものがあるということを……」

「私が落としたのは銀の父です、女神様」

 寧は即答した。

「金を選ぶなど、いやしくてとてもできません、女神様」


 女神はしばし沈黙した。そして、寧の瞳が揺るがないことを確認すると、そっと銀色の楊を桟橋の上に落とした。そして、無言のまま、湖の奥へと沈んで行ってしまった。

 残された銀色の楊は、銀の貼られた歯をむき出した。


「やあ、寧。はじめまして。銀の父だよ」

「……どうも」


 純銀ならまだ使いでがあったのに。銀の父は、動くたびにぽろぽろ銀箔を落とす。そして中から、ちょっとはきれいに見える楊が現れるのである。

 寧はがっかりした。


「その、ええと……父さん。その落とした銀、全部拾ってね」

「よし、まかせてくれ、寧」

 そう元気にうなずく銀の楊から、ぼろりと銀の塊がはがれて湖にぱしゃんと落ちた。あわてて湖をのぞき込む父親を制する。

「いいわ。しょうがないもの……」

「そうか。寧が言うならそうなんだろう」

 悪い夢を見ているようだ、と寧は思った。




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