僕と父と本屋

広川朔二

僕と父と本屋

 僕は本が好きだ


 夢のような世界が広がり、浪漫溢れる冒険も、手に汗握るサスペンスも、涙するラブロマンスだってそこにはある。小さい頃から絵本が好きだった僕は小学校でも図書室で児童書を読み漁り、中学生になると市営図書館の常連となった。


 だけど僕は本屋が嫌いだ。


 やたらと明るい店内とは対照的な不愛想な店主。なによりも自宅の一角を占有され、父も母も仕事の所為で僕にはほとんど構ってくれない。大好きな本がたくさんあるのに小学生までは売り物だからと店内の本に触れることすら許されなかった。正面は店の入り口だからと裏口からコソコソと出入りをするのも嫌だった。


 折角の休日も店があるからと遠出することはなかった。運動会にも母が少し顔を出すだけ。家族と一緒に下校する友達を別世界のことのように感じていた。週一回の定休日も母は家事に追われ、父は朝から晩までどこかに出掛けていた。


 僕に多くのことを与えてくれた本。


 僕に与えられるはずだった多くのことを奪った本屋。


 だから僕は本屋が嫌いだ。


 そして父が苦手だった。幼少期の父の思い出といえば、店で不愛想にしている様子とリビングでブックカバーをつけた本を熱心に読んでいる姿くらいだ。


 高校に進学すると店の手伝いをさせられることになった。


 帰宅後に店の掃除と店番。閉店後には新刊の陳列作業。バイト代は相場通りに出してくれたし通勤にかかる時間もない。友人からは羨ましがられたが僕は嫌だった。


 自分の世界が狭く囲まれていくような気がした。


 昔は想像の中、どこまでも広がっていた世界に蓋をされたようで。


 唯一の逃げ道は本だった。より読書に熱中するようになった僕。夕食後のある時、本を読んでいる僕と父を見て母がうんざりしたように「本当に親子ね、あなた達」と言ったことがあった。


 父と似ている。すごく嫌なのに少しだけ照れくさく、なんとも言えない気持ちになった僕はその後自分の部屋でしか読書をしなくなった。


 父もこの狭い世界から逃避するために読書をしているのだろうか。


 ふとそんな風に思うようになった。母に似ていると言われたあの日からどうにも父のことが気になるようになった。


 寡黙な父。


 この店は祖父の代から続いているので父の出身はこの街だ。小学校も中学校も僕と同じ。だが高校は? 大学は? 両親の出会いは? 休みの日にどこに行っているのか?


 そういえば何もこの人について俺は知らない。


 父はどんな本を読んでいるのだろう。先ず興味を持ったのはそれだった。父の書斎には鍵がかけられている。小さい頃に勝手に入り込んでものすごく怒られた。曰く、本が崩れてきたら危険だから、と。しかし高校生である僕はその鍵がどこにあるのか知っている。鍵は二本。父が肌身離さず持っているものと母が掃除をするために戸棚にしまっているもの。


 両親が揃って店番をしているときを見計らいこっそりと父の書斎に忍び込んだ。


 全面の壁に天井の高さまである本棚はびっしりと埋まっており、棚に入りきらない本が床にも積み上げられている。積み上げられた本は大きさと向きが揃えられているからか、これほど本に溢れているというのに乱雑さは感じられない。まるで几帳面な父の性格を表しているようだ。店とは違い、少しカビ臭いような古本屋のような臭いが部屋に充満している。


「あれ?」


 思わず声が漏れてしまったのはいくつか僕の好きな作家の本が置いてあったのだ。その中には僕の知らないタイトルもいくつかあった。


 それ以降はこっそりと父の書斎に忍び込んではその蔵書を拝借し読むことが増えた。


 それに気が付いているのかどうか。父は相変わらず何も言うことはなかったがいつからか書斎に鍵がかけられなくなった。


 少しずつ、少しずつだけ。父との距離が縮まっているように感じていたある日のこと。


 買い物に出かけた母に代わって学校帰りの僕が店番をしていた時、長身痩躯な男と短躯な男がペアルックのように黒いスーツで来店した。よく見るとネクタイが黒いので葬儀の帰りだろうか。


 二人組は俺のいるレジを見ると何やらひそひそと話している。


 怪しい。


 店内には他に客はおらず、否応にも緊張感が高まっていく。


 近づいてくる二人組。


 防犯ブザーは? 強盗用のカラーボールは? 保険にはいっているから要求されたら金はすぐに渡していいと教わったよな? 頭の中で警鐘が鳴り響く。


「あのう、クニヒコさんはいらっしゃいますか?」

「え?」


 緊張で強張っていた体から力が抜けていく。長身痩躯の男が出した名前は父のものだ。話し方も柔らかくその見た目からは想像が出来ないものだった。


「あっ、えっと。父ですか? あの、あっ、えーっと、どちら様でしょうか?」


 軽くパニック状態の僕はどもりながらも目の前の男が何者か尋ねた。


「クリスと言ってもらえればわかると思います」


 クリス、栗栖だろうか? やや堀の深いその顔は日本人なのかどうかは判断がつかなかった。


 手元にある電話をとり内線で自宅リビングを呼び出す。来客の旨を伝えるとすぐに父がやってきた。あまり見たことがない父の笑顔に驚いていると「お前は休憩してきなさい」と言われてしまい結局この二人組が何者なのか、父とはどんな関係なのかは確かめることは出来なかった。


 気になる。その想いは日に日に強くなっていくが父に直接聞くことは何故か出来なかった。


 それから半年程経過したある日、僕が一人で店番をしていると例の長身痩躯な男が今度は一人でやってきた。前回と同様に黒いスーツに黒いネクタイだ。「お父さんはいるかい?」と前回よりもフランクに話しかけられたのは僕が息子だと認識したからだろうか。


 父を呼ぶと追い出される僕。どうしても二人のやり取りが気になったので自宅に戻った僕はリビングのテレビを付けリモコンで入力を変える。すると少し荒いカメラの映像が流れた。防犯カメラの映像だ。音は無いが四分割された映像の中で父と男がなにやら楽しそうに話しているのが見える。


 しばらく会話をした二人だが、父がレジの下にある金庫を開け一冊の本を男に手渡した。あの金庫は貴重な本を特注で仕入れた時に使うと聞かされていたものだ。実際に使われているのは初めて見た。


 上客なのだろうか?


 その男が対価として父に渡したのはお札ではなかった。カードでも小切手でもない。五百円玉よりも明らかに大きな硬貨だ。それをレジカウンターに何枚も積み重ねている。


「あら、お店のカメラなんて見てどうしたの?」


 父と男のやり取りに気を取られていたせいで母の帰りに全く気が付かなかった。別に疚しいことをしている訳ではないのだが、「え、ああ、なんかリモコンのボタン押し間違えちゃって」と誤魔化し夕方のニュースへとテレビ表示を変えた。


 あの男は一体何者だ。


 その想いは増々強くなっていったが大学受験が近づくにつれ僕の意識からはこのことは消えていってしまった。


 大学への進学を期に実家を離れた僕はなんとなく家から疎遠になり正月に帰省するくらいになってしまっていた。


 無事に就職も叶い、日々に追われていたある日の土曜日。


 携帯電話の着信音がワンルームの我が家に響く。ディスプレイに表示されていたのは父の名前。


「もしもし?」

「もしもし? 今時間あるか?」

「うん、大丈夫だけど」


 久しぶりに聞いた父の声。


「父さん、癌になっちゃってな」

「え?」

「ステージ四ってわかるか? 病院で検査したんだが転移もしてるみたいで治る見込みもないらしい」

「え?」


 頭が真っ白になるというのはこのことなのだろう。電話口では癌が見つかった経緯や治療法のことなんかを淡々と自ら話しているがまるで遠い世界からの通信のように靄が掛かっている。


「それでな、今後のことで電話じゃあ、あれなんで直接話したいんだがいつ帰ってこられるか?」

「あー、っと、ちょっと会社に相談してみる」

「そうか」

「母さんは?」

「父さんよりも落ち込んでしまってな…、こんなだから今は店も閉めている」

「そう、わかった。また連絡するよ」


 翌週、会社に事情を説明し急遽休みを取った僕は実家へと急行した。


 いつの間にかげっそりと痩せ細った父。俺に心配させまいとしているのか少し優しい顔をしている。母は目の下に隈をつくりなんだかやつれたように感じる。


「ちょっと出てくる、ついて来てくれ」


 改めて病状の説明や今後のこと、遺産や店のことなんかを淡々と説明していく父。一通り話し終えたところでの一言だ。どこに行くか、何しに行くのか告げないところはなんとも父らしい。


 玄関で車の鍵を持った父から「僕が運転するよ」と鍵を受け取り、助手席に座った父の言う通りに車を走らせる。道の指示以外では終始無言の車内。そういえばこうやって父とドライブするなんて初めてだ。


 街の中心部から離れ、田園風景を抜け山道に入る。舗装されていない道を進みたどり着いたのは小さな、それでいてよく手入れの行き届いたログハウスだった。


 ログハウスに入った父は椅子に座るでもなく、その中心に立っている。なにやら考え事をしているのか目を瞑ったままだ。


 少し埃っぽい室内には暖炉やロッキングチェアに大きな絨毯とまるで映画のワンシーンのようなインテリアが。


「隣に来なさい」


 僕はその通りに父の隣に立つ。大きく逞しく感じていた父はもういない。身長もいつの間にか僕の方が高くなり、若く健康的な体の僕に比べ病気に侵され痩せた父。


 どこからか取り出した文庫サイズの本。父らしくない装飾の施されたブックカバーをつけた本を広げる父。何かを唱えるとまるで映画のように本を中心に幾重にも空中に描かれる色とりどり魔法陣のような図形。それらが一斉に輝きを増し、思わず僕は目を閉じた。


「ちょっと、父さん。今の光は一体?」


 未だに視界がぼやけているが隣にいる父にたった今起きた現象ついて尋ねる。


「旦那様!」


 すると目の前には父に駆け寄るメイド服姿の人物が。


「御力が日に日に弱まるのを感じ心配しておりました。どうぞ、こちらに」


 父の身体を支え近くの大きなソファに座らせる彼女は金髪でどう見ても日本人ではない。


「父さん、これは一体?」


 よく見れば部屋の作りは同じだが暖炉には火が入れられている。室内に漂うのは甘い香りだ。


「ここは私たちの住む世界とは異なる世界線。いわゆる異世界というものだ」


 咳き込みながらも俺の目を見て話す父。冗談だろう、と言いたいところだがさっきの現象は何か突飛なことでもない限りは説明がつけられない。それこそ。


「魔法という技術が発達した世界」


 そう、現代科学とは全く別のもの。


 父の隣に腰を下ろすと、父はまるで何かの物語を語るかのように話始める。


「父さんの父さん、つまりお前の爺さんはこの魔法世界の人間だった。この魔法世界と私たちの住む世界は隔てられているが爺さんは特殊な力の持ち主で二つの世界を行き来することができた。やがて爺さんは私たちの住む世界でとある女性と恋に落ちた。そして生まれたのが父さんだ。生活費を稼ぐために爺さんは自分の能力を使いこの魔法世界の本を私たちの世界に持ち込み販売していたんだ」

「魔法世界の本を?」

「そうだ。世の中には好事家がいるもので嘘か真かわからないこの世界の本は高く売れたそうだ。そして今もその仕事は父さんに引き継がれている」


 そこからは何故父さんがこの仕事を引き継ぐようになったのか、この魔法世界について、など日が暮れるまで語り続けた。


「つまり、その力は僕にもあるってこと?」

「そうだ、お前がこの世界に一緒に転移できたのがその証拠だ。だがお前だけでは転移はできない」


 そう言い、文庫サイズの本を取り出して見せた。よく見るとブックカバーだと思っていたが表紙に直接装飾が施されている。


「これは爺さんが遺してくれた魔導書。この本が二つの世界を行き来する架け橋となる」


 ゴホゴホと咳き込む父。


「ふう、喋り続けて疲れたな。そろそろ家に帰るとするか、母さんも心配している」


 立ち上がろうとする父に手を貸すメイド姿の女性。彼女は人間ではなかった。自動人形という家事用のロボットだそうだ。その原動力は父の魔力というから驚きだ。


 正直なところ、僕の処理能力を超えた出来事。正に思考回路はショート寸前だ。


 再び父が生み出した魔法陣の光につつまれて転移した僕たち。


 今日は話続けていたからか帰りの車内では今までにないくらい饒舌な父がいた。


「お前が私の書斎から本を持ち出していたのは気が付いていた」


「あの作家、父さんも高校生の時に読み始めたんだ、お前も読んでいるのに気が付いた時、無性に嬉しくてなぁ」


「どこにも連れて行ってあげられなくてごめんな」


「母さんのこと頼んだぞ」


 饒舌といっても無口な父からすれば、というだけだ。ぽつりぽつりと呟くように助手席で語り続ける父。最期の言葉のように感じて、僕はただただ涙をこらえるのに必死だった。


 そんな父の言葉に耳を傾けながらの帰り道はあっという間だった。


 駐車場に車を停めると、父からあの魔導書を手渡される。


「力の使い方はこの本に書いてある。この力を使うも使わないもお前の自由だ。あの店もしばらくは母さんが続けるだろうがお前が継ぐことはない。常連さんには父さんの代で魔法世界の本の販売は終わりとも言ってあるからな」


 こうして父と僕の二人きりのドライブは幕を閉じた。そしてこれが父との最後のドライブとなった。


 衝撃の告白から二か月後、父は旅立っていった。


 父が亡くなる前の入院中、二人きりになったときに尋ねたことがある。


「魔法世界には癌を治す薬ってないの?」

「あるさ、癌だけじゃない、万病に効く薬も不老不死になる薬だって」

「じゃあ…」

「だがな、それを使うってことはあっちの世界の人間になるってことだ。父さんはお前や母さんがいるこの世界の住人として、この世界の理のなかで逝きたいんだ」


 そう話す父は目の前に迫った死に怯えることなく、むしろやり切ったような顔をしていた。


 父もこの狭い世界から逃避するために読書をしているのだろうか。


 昔そんなことを感じていたのを思い出した。だがそれは間違いだった。父は誰よりも広い世界を持っていた。だって二つの世界を行き来していたのだから。


 火葬場から昇る煙を見てあの時の父の横顔が浮かんできた。


 父の死に後悔はたくさんある。もっともっと多くのことを話しておけばよかったと。


 どこかに壁を感じていた父だったが、壁を作っていたのは自分の方だったかもしれない。いつか母が言った「本当に親子ね、あなた達」という言葉が僕の心を締め付ける。きっと似た者同士だったのだろう。僕と父は。


 あれから十年の月日が経った。


「パパ、ただいま!」


 店頭の掃除をしていると息子が小学校から帰ってくる。真新しいランドセルを背負う我が子。


「宿題やったらトモくんと遊びに行くねー」


 元気に、近所中に聞こえるのではないかという声量で宣言して店の奥、自宅に繋がる扉へ駆け足で向かう。


「コラ! お店の中を走るんじゃない!」


 扉の奥からは母の怒鳴り声が響く。いつものことだ。妻に似たのか息子は僕の幼少期とは違い常に元気いっぱいだ。


 似ても似つかない光景だが、ふと自分の幼少期のことが頭に浮かぶ。数年前にリニューアルした店に昔の景色を浮かべ、今は亡き父の背中を思い出す。


 僕が店を継いだ時に店の定休日も変更した。週一日の休みから週休二日へと。そのうちの一日は必ず子供と過ごすようにしている。自分の子供には辛い思いをさせたくないから。甘やかしすぎるからか母や妻からはよく苦言を呈されている。そしてもう一日の休みは。


「やあ、ユウキさん。例の本は手に入りましたか」


 ボーっと店内を眺めていた僕に声をかけてきたのは相変わらず黒いスーツに黒いネクタイのクリスさんだ。


「はい、手に入れるのに結構苦労したんですよ」


 うちの常連のクリスさん。昔と今も見た目は全く変わっていない。そんな彼から依頼された本を入手するのには随分と苦労したものだ。こっちの仕事も僕は引き継いだ。週に一度は魔法世界に行きお客さんからリクエストのあった本を探している。


 外観も内装も店主も営業日も変わったこのお店だけど常連さんは変わらず来てくれる。中にはクリスさんのように歳をとらない人や、若返る人、性別が変わる人なんかもいて驚くことはあるけれど。


 そうだ、もう一つ変わったことがあったな。


 僕が本屋を大好きになったってこと。

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