はじまりはじまり

川本たたみ

第1話

みんな死んでしまえばいいのに。

と、ときどき思う。


それは、会計の時に落として散らばった小銭を集めるためにしゃがんだ頭上や、恋人のため息の向こう、満員電車の密着したオヤジの腹部、一人で食すコンビニおでんから昇る湯気、とにかく至るところに突然やって来てはわたしの心拍数を急上昇させ、体は過剰に酸素を求める。


みんな死んでしまえばいいのに。


ある日、わたしは珍しく早く目が覚めたので、念入りなメイクにラッシュ2を身に纏うと近所の有名なパン屋に朝御飯を求めて家を出た。


8:38


店の前まで来ると、水曜定休との貼り紙。今日は水曜日だった。


みんな死んでしまえばいいのに。


背後でどさり、と物音がした。振り返ると民家の前で、ほうきを持ったままおばあさんが倒れていた。

続いて、おばあさんにゆっくりとにじり寄るわたしのずっと向こう、爆発音。

わたしのすぐわきを猛スピードの軽自動車が走り抜け、やがて避けることもなく行き止まった緩やかな崖を、ガードレールを破って転げ落ちていった。

しゃがみ込んで皺々の白い腕を引き寄せる。

脈はすでになかった。


みんな死んでしまったのだと思った。


わたしは試しに民家の庭に忍び込んで金属バットをくすねると、パン屋の開かない自動ドアにむかってフルスイングしてみた。

ガラスは飛び散る。けど、騒ぎを聞き付けて顔を出す近隣住民は誰ひとりいなかった。

それを五、六回続けると、女子一人くらいなら通り抜けられるような穴が空いた。

くぐり抜けて店内に入ると、奥の方で誰かが倒れていた。

わたしはそれに見向きもせず、昨日の売れ残りであろうシナモンロールを掴み、大きな一口を頬張った。


うまい。


イートインスペースに三対だけあるテーブルと椅子は猫脚でお洒落。

no smokingの文字を横目に、セブンスターに火を点ける。


くるみパンもなかなかの味だった。



10:03


昼からバイトだと思い出したわたしは、ブーツからスニーカーにはき替えようと自宅へ向かう。

途中で大通りに出るとあちこちで車がスクラップになり、いつも見るジョギングのおっさんらしき足が黒いセダンの下から覗いていた。


そうだった。

みんな死んでしまったんだったっけ。それなのにバイトだなんて、染み付いた習慣って怖い。

そうだったそうだった。もうあの息が臭い店長に怒鳴られることもないし、ブーツをはいてても怒られないし、髪についたニンニクの臭いを恋人に笑われることもないんだった!


恋人。


恋人、は、どうしただろう。

ちょうど仕事場についたころだったはずだし、デスクにでもつんのめって泡吹いてんのかもしれない。

最近派遣の女と仲良かったみたいだしいい気味だ。


びゅう、と風が鳴る。

わたしは、読みたい本があったことを思い出し、自宅に向かう下り坂を反対方向に登り始める。寒さがわたしを早足にさせる。


11:47


本屋は十時開店だった。

しまった、開店時間前にみんな死んでしまったわけだし、これじゃあシャッターが開けられない。

それでも諦められなかったわたは、ぐるっと回って従業員用トイレの窓から侵入した。


山田詠美が好きだ。甘くて酸っぱくて苦くてせつない。わたしの生活にはリアルしかないから、活字の世界はひどく甘美。


監視カメラは始終目配せをしていたけれど、チェックする人間がいないから意味はない。

それならば、と、レジをどうにかしてこじ開けたら労せずしてお金が手に入ることも思いついたけれど、今この世界ではそれも無意味だとすぐに気がついた。


欲しいものはすぐに手に入る。

コンビニのジュースなんてもはやドリンクバーだし、ずっとほしかったsnidelのワンピースだって。

だけどショップに行くには地下鉄で九駅も揺られなきゃならない。

電車なんて脱線しまくりで粉々だろうな。

環状線は、回り続けているんだろうか。

エンシンリョクで吹っ飛ばされてこっちも粉々?それとも死体を乗せて永遠に回り続けるとしたら、どう?

なんだかわたしも小説家になれそう!


未来の文豪であるわたしは、読者がもう世界中にわたし自身しかいないことに、興奮のあまり気づいていなかった。


16:36


本屋から、三冊の本と罫線が灰色のノートを持ち出して帰路に着く。

ちょっと長居しすぎたかな。冬は日が落ちるのが早い。

いつもの帰り道にはぽつりぽつりと唐突に人が倒れていたけど、もうそれにも慣れてしまっていた。

玄関を開けてブーツを脱ぐ。ブーツキーパーなんて不要。

施錠だって。


さあ、書かなくちゃ!


わたしは机に向かった。


さあ、書かなくちゃ!


でも一体何を?


世界は止まってしまった。

世界は、わたしの一言で止まってしまった。


わたし、いつの間に世界の実権を握っていたのかな。

そんなに思い通りになるんなら、別のこと願うんだった。


あーあ。


お母さんのお雑煮が食べたい。


あーあ。


はじまりはじまり。


でも一体何が?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじまりはじまり 川本たたみ @kawatata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る