第26話 優しい笑顔


 突然、桐谷先生が後ろで倒れた。驚いて振り返るとそこには高橋が立っていた。奴は手にワインボトルを握っていた。彼女はあれで殴られたのか。


「まったく……おまえも四葉も余計なことをしてくれる」


 私は椅子から立ち上がり奴を睨み付けた。足元には先生が頭から血を流して倒れている。私は見えないよう、後ろ手にテーブルの上に手を伸ばした。


「話は全部聞いてたよ。どいつもこいつもちょっと優しくしただけで調子に乗りやがる。そのくせ簡単に裏切りやがって……」


「裏切ったのはおまえだっ! お姉ちゃんも桐谷先生も……おまえが傷つけたっ!」


「うるさいっ! おれは彼女達が望むものを与えただけだ。それのどこが悪い?」


「どこまでも腐ってる……でもそれも終わりだ。この動画をネットに晒しておまえの本性を暴いてやる!」


 私はスマホ大袈裟に掲げる。奴は顔色を変え私に襲い掛かってきた。ワインボトルが鈍い音を立て床に転がった。


「そんなことさせるかっ! 寄こせっ!」


 逃げようとするが私は髪を引っ張られ床に倒れ込んだ。その拍子にスマホが落ち、床の上を滑っていく。


 奴は私の体を抑えつけ馬乗りになる。そして薄笑いを浮かべ私を見下ろした。


「これは立派な正当防衛だ。おれは脅されてるんだからな。筋書きはこうだ。おれは恋人と浮気相手の言い争いに巻き込まれた。二人を必死に止めたが突然殴り合いを始めた。そしておまえは四葉を殴り殺したことで動揺しベランダから飛び降りる。まるで姉を追いかけるようにな」


 くっくっと奴は笑った。そして前屈まえかがみになって私に顔を近付けた。奴が吐き出す生温かい息が顔に掛かる。それでも私は目を逸らさずに奴を睨んだ。


「やっと愛伊香に会えるじゃないか! おれがその願いを叶えてあげるよ!」

 

 唾を撒き散らしながら奴は叫んだ。その時、私は隠し持っていたフォークを思いっ切り奴の目に突き立てた。


「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」


 奴は顔を抑え後ろへと倒れ込んだ。


「痛ぇぇえええええ! ひぃっひぃっ、目…目がぁぁあああーーー!」


 奴の左目からはだらだらと血が流れ始めた。床を転がりのた打ち回っている。

 

 私は体を起こし急いで桐谷先生へと近づいた。


「先生っ! 先生っ!」


 声を掛けるが反応がない。ここは一旦外に出て助けを呼ぼう。そう思って立ち上がろうとした時、後ろから髪を強く引っ張られた。床に激しく叩きつけられ、奴が再び馬乗りになってきた。


「ふざけやがってぇぇっ! 殺してやるっ!」


 奴の手が首に食い込む。息ができなくなり、意識が遠のいていく……


 

 薄れていく意識の中でお姉ちゃんの笑顔が浮かんだ――




「バリィィィーーンン!!!」



 ガラスが割れるような激しい音と共に奴の手が首から離れる。奴の体は真横にドサッと倒れた。目の前には割れたワインボトルを持った桐谷先生がよろめきながら立っていた。



「はぁはぁ……私のかわいい生徒に何してくれてんのよっ!!」 


「ゲホッッ! ゲホッ!」


「大丈夫!? 祐加理ちゃん!!」


 先生は慌てて私に近寄るとそっと抱き起してくれた。私はゆっくり少しずつ息をした。高橋は床に突っ伏していた。どうやら気を失ったみたいだ。



「先生こそ……大丈夫ですか? 血が出てます」


「平気平気! あんなひょろひょろした奴に殴られたってたいしたことないわ」


 

 額から血を流しながらも彼女はにこっと笑った。


 その優しい笑顔は、小さい頃いじめっ子から守ってくれた時のお姉ちゃんと同じだった。


 私は先生に思い切り抱きついた。目からは涙が止めどなく溢れてくる。



「うぅ……先生……せんせぇいーー! ありがとう! ありがとぉーー!」

 

 先生は私をゆっくり抱きしめ、頭を撫でてくれた。


 その暖かさはまるでお姉ちゃんのようだった。




 ありがとう――愛伊香お姉ちゃん。


   

   

 

 私はお姉ちゃんの妹でとっても幸せだったよ。






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