彼女の本屋

七迦寧巴

第1話 彼女の本屋

 あれは中学一年生の冬休みだった。

 列車で小一時間ほどの町に引っ越した幼馴染みの家に泊まりに行った。

 その晩は部屋でゲームをしたり学校のことや共通の友人のことを話していて、見事な完徹。気づけば窓の外は白々と夜が明けていた。


 朝食をいただいて、少しぼんやり過ごしてから幼馴染みの家を出た。

 夜の間に雪はしんしんと降っていたのだろう。降り積もった雪が朝日にきらきらと反射していて眩しい。

 きゅっきゅっを雪を踏みしめながら駅に向かった。


 停車していた列車に乗り込む。この路線はさほど利用者は多くない。車内には数人しか居なかった。

 ボックス席に座り、リュックを隣に置くと睡魔が襲ってくる。なにせ車内は暖房が効いていて、足元がぽかぽかと暖かい。

 いつ列車が出たのかも記憶にないくらいグッスリと眠り込んでしまった。


 ピーという発車の音が遠くに聞こえてふいに目が覚めた。顔を上げると、ちょうど列車が発車するところだった。

 あれ? 今から発車するのか?

 そう思ってホームの駅名を見ると、それは幼馴染みの住む駅名ではなかった。いっきに覚醒して思わず立ち上がってしまった。

 ぐっすりと眠り込んで乗り過ごしたのだ。


 列車はもう動いているので次の駅までは下りられない。何駅過ぎたのかを車内の路線図で確認すると二駅過ぎていた。従って自宅のある駅から三駅目で下りることになる。


 まあ、そのくらいで済んで良かったと思おう。

 再び席に戻り、今度は寝ないように車窓からの景色を眺めていた。とは言っても、この季節は一面の銀世界なので、面白そうなものは何もない。

 たしか小学生の頃にこのあたりに現地学習か何かで貝塚を見に来たっけ、などと、どうでもいいことを思っていた。


 牧野駅を下りて、上り列車の時刻を確認すると一時間後になっていた。

 なんてこった、ローカル路線だから仕方ないけど一時間も時間を潰さないといけない。


 とりあえず改札の隣にある公衆電話から家に電話をした。寝過ごしたことを言うと母さんに

「ドジだねえ。今度はちゃんと帰ってきなさいよ」と笑われた。


 一時間もホームで待っていたら寒くて風邪を引いてしまう。いったん改札を出て、この町を散策することにした。

 駅員さんに切符を見せて不足分の料金を払おうとすると、電話の内容を聞いていたのだろう。駅員さんは

「いいよ。次の列車が来るまでに戻っておいで」と、そのまま改札から出してくれた。


 お礼を言って駅を出る。駅前通りにもあまり建物はなく、閑散とした印象だ。

 店があれば入って時間を潰そうと思っていたが、そんなところも無さそうだ。

 仕方なく適当に歩き始めた。商店街らしきアーケードを発見したのでそちらに向かったが、どの店もシャッターが下りていて、余計に寂しさが増した。


 短いアーケードが終わりに近づいた頃、ふと横道を見ると本屋があった。シャッターは下りていない。自然と足は本屋に向かう。

 滝本書房、と看板が出ていた。個人経営の本屋らしい。


 カラカラとガラス戸を引くと暖かい空気が体を包んだので、冷えていたのだと気づく。店内に客は居なかった。中はわりと広くて、雑誌は入口すぐの場所に、漫画は右側、文庫や単行本は左側、その奥は専門書らしきものが陳列されていた。


 そういえば最近発売された漫画で気になっていたものがあったな、そう思って漫画エリアに向かう。

 此処の本屋は漫画にビニールを掛けていなかったので、パラパラと眺めることが出来た。


 店内の暖かさに頭がボーっとしてきた。

 ダウンジャケットを着ているので余計に体が熱くなっていたのだろう。鼻からトロリとしたものが落ちたのが分かった。


「やばい!」と思ったときは遅かった。

 鼻血が平積みの本に垂れてしまったのだ。ビニールに包まれていない本だ。どうしようと軽くパニックになる。

 ティッシュはリュックの中だ。背中からリュックを下ろしてファスナーを開けようとして、これだと万引きだと思われるかもしれないと気づいた。


 やばいやばい、どうしよう、やばいやばい!


 頭の中はその言葉ばかりがぐるぐる回っている。

 血が付いてしまった漫画を持ってレジに向かった。そこに人は居ない。

「すみません」と声を出すと、レジの奥から二十代半ばと思われる女性が出てきた。

「はーい、あら!」

 鼻から血を垂らしている僕を見た女性は目を見開いた。


「大変! ちょっと待ってね」

 レジの裏からティッシュケースを持ってくると、数枚取りだして僕に渡してくれた。鼻に当て、血が付いた漫画を見せた。

「すみません、汚してしまいました」

「そんなのいいから、こっちに来て座りなさい」

 女性は僕をレジ横の椅子に促した。


「鼻の付け根をつまんで、しばらく下を向いてるといいのよ」

 言われたとおりに大人しくしていると、鼻血も止まったらしい。

 女性は濡れたティッシュで僕の顔の周りを拭いてくれた。知らない人に手当をしてもらい気恥ずかしい。


「ありがとうございます。すみません、その漫画買います」

「もともと買うつもりだったもの?」

「いえ……」

「なら買わなくていいわよ。弁償なんかも気にしないで」

「でも」

「わざと鼻血を出せる人なんて居ないでしょう」


 女性はそう言って笑った。確かにその通りだが、徹夜してしまったのが大きな原因だと思う。寝不足でボーっとしていると、僕はわりと鼻血が出てしまうのだ。

「すみません」

 ぺこりともう一度頭を下げた。

「なんも、ほんっといいから。きみ、このへんじゃ見かけないね。最近越してきたの?」

「いえ、列車乗り過ごしてこの駅で降りたんです」


 幼馴染みの家で朝まで起きていて寝過ごしたことを話すと女性は

「若いねえ」と、けらけら笑った。

「したっけ、次の列車が来るまでゆっくりしていって。あ、コーラでも飲む?」

 体が火照っているので冷たい飲み物は有り難かった。

 素直に頷くと女性はレジ奥の部屋に消え、しばらくして氷の入ったコーラを出してくれた。ダウンジャケットを脱いで冷たいコーラを飲むと落ち着いた。


 女性はその様子を見て微笑むと、レジの奥で伝票の整理を始めた。

 色白で、ほっそりした姿。綺麗な人だと思った。

「お姉さんひとりでやってる本屋なんですか」

 沈黙が少し気まずくなり、言葉を探して聞いた。


「今はね。ほんとはお婆ちゃんのお店なんだけど、今は入院中なの。うち、お母さんは居なくて、お父さんは札幌で働いてるからお婆ちゃんと二人暮らしなんだよね。店閉めちゃうと、お婆ちゃんが悲しがるから私が代わりに、ね」

 僕が子供だから、そこまでの事情を話してくれたのだろうか。軽く質問してしまったことを後悔していた。


「きみは中学生?」

「中一です」

「そっか、これからいろいろ経験して楽しいことがいっぱいだね」

「そうですか?」

「そうだよー。いろんな選択ができるっしょ」

 そう言って女性は明るい笑顔を見せてくれた。


 今度は列車で寝過ごさず家に帰ることが出来た。

 本屋での一件を話すと、母さんはお菓子を買っておくから、近いうちお礼に行ってきなさいと言った。


 *


 数日後の天気が良い日、菓子折を持って再び牧野駅に降り立った。

 この間よりも時間は遅かったので、アーケード街はいくつか店も開いていて少し安心した。

 書店に着き、引き戸を開けるとレジに居た女性がこちらを見た。大きな目が僕を捉える。


「あれ、きみは」

「どうも」

 ペコリを頭をさげ、レジに近づいた。

「あの、これ母さんが……この間はすみませんでした」

 そう言って菓子の入った紙袋を女性の前に出した。


「別に良かったのに。わざわざありがとね。このお菓子美味しいよね。だけど自分ではなかなか買わないから嬉しいな。お婆ちゃんが喜ぶよ」

 そう言って女性は嬉しそうに受け取ってくれた。この界隈の銘菓で、地元では有名だ。


「お婆さんは、まだ病院?」

「そうなの。まだしばらくは退院出来ないみたい。あ、今日は時間はあるのかな? お礼に私が作ったケーキを食べていかない?」

 お礼しに来たのはこっちなのに、またお礼をしてもらっていいのだろうかと迷ったが、素直に頷いてしまった。

「じゃあそこに座ってて」


 女性はレジ横にある小さなテーブルに僕を案内すると、ちょっと待っててねと言って奥の部屋に入っていった。

 そのあいだ、店内をぼんやりと眺めていた。昔ながらの家屋で天井は高い。

 梁というのだろうか、とても太くて立派だ。本棚もすべて木。丈夫な木材が使われているのが分かる。

 そこに並ぶ本を見ながら、そういえば本の紙ももともとは木から作られているんだっけ、なんて思っていた。


「おまたせ」

 女性がお盆を持って出てきた。テーブルに出されたお皿にはチーズケーキが乗っていた。

「昨日の夜作ったの。どうぞ召し上がれ」

「いただきます」

 チーズケーキにフォークを入れると、しっとしりた感触が伝わってきた。口に入れるとチーズの濃厚な味が口の中に広がる。


「おいしいです」

「ほんと? 良かった」

「お店で食べるチーズケーキよりおいしい」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。チーズはこのあたりの酪農家さんから買ったの。品質は間違いないよ」

 女性はそう言って笑顔を見せると、自分も頬張り、

「うん、上出来」と満足そうな顔をした。

「私ね、本当は菓子職人になりたかったんだよね。札幌の専門学校にも行っていたんだよ」

「今からでもなれますよ。おいしいもん」

「ううん。ほら、この本屋があるでしょ。お婆ちゃんが引退したら私が継がないと」

「継がないとだめなんですか?」

「お菓子作りは好きだけど、お婆ちゃんが大事にしてきた本も好きだし。この本屋も好きだし──もともとはご先祖さんが開拓して建てたおうちだからね」


 僕の家は団地なので、その感覚はよく分からなかった。でもこの本屋の空間とそこに並ぶ本には重みがあることは感じた。


 それからは、たまにこの本屋に行くようになった。

 もちろん最寄り駅のビルに入っている本屋の方が品揃えは豊富だ。けれど、居心地の良い本屋と、そうでもない本屋があることに気づいた。

 駅ビルの本屋は無機質だ。それに比べて女性の本屋は温かみがあって居心地が良い。

 さすがに雑誌を買うだけのために列車に乗って牧野駅まで行くのは気が引けたので、参考書や単行本など、もうちょっとしっかりした本を買うときは列車に乗って女性の本屋で購入した。


「わざわざいいのに」と言いながらも、女性も僕の来店を歓迎してくれた。そして僕が好みそうな本を入荷してくれるようになった。


 *


 北海道にも遅い春が来て、桜が咲く頃、本屋にお婆さんが戻ってきた。

 ずっと病院にいた所為なのか、細っこい体だが、笑った目元は女性に似ていた。

「きみが鼻血の子かぃ。いつも来てくれてありがとうね」

「鼻血の子……」

 そう言われて頬が赤くなった。

「やだ、お婆ちゃんってば。ごめんね、ほら、きみの名前聞いてなかったから」

「……僕もお姉さんの名前知らないです」

「私は滝本楓香ふうかって言うの。よろしくね」

「僕は吉井ゆうです」

「ゆうくん、いい名前だね」


 お婆さんは退院して戻ってきたけど、やはり本屋の仕事は体力的にもきついらしく、楓香さんが切り盛りするようになっていた。

 お婆さんは寝ているのか起きているのか分からない姿でレジに居るが、顔色は退院したばかりよりも良くなっていると思う。


 僕を見ると「楓香の作ったお菓子、食べるかい」と誘ってくれる。

 楓香さんのケーキは本当に美味しい。この本屋さんをケーキ屋さんにしちゃえばいいのにと思ったこともあるが、それは楓香さんには言わなかった。

 だって楓香さんは、この本屋も大好きだって知ってるから。入荷された本を並べる手はとても優しい。一冊一冊大事に扱っているのが分かるから。


 *


 中学を卒業し、地元の高校に入り、だんだん楓香さんの本屋に行く回数は減っていったが、それでも月に一回ほどは顔を出した。

 僕が行くと必ずと言っていいほど手作りのケーキを出してくれる。おかげで舌が肥え、ケーキの味にはうるさくなってしまった。

 たまにお土産で持たせてくれる楓香さんのケーキは、母さんと父さんの好物のひとつになった。


 本屋のレジ横にあるテーブルは、僕にとって居心地の良い空間だ。ここから眺める本の背表紙はまるで絵画のようにも思えた。

 大学に合格したときは、

「ゆうくんなら絶対受かると思ったよ! おめでとう!」と、まるで家族のように喜んでくれた。

「札幌の大学でも、しっかり勉強して頑張ってね。帰省したときは顔を出してね」

「はい。もちろんです」

「建築学かぁ。すごいねえ。将来はどんな建物をつくるのかなあ」

「まだ分からないですけど」


 そう照れながら答えたが、僕が建築を学んでみようと思ったのは、間違いなくこの本屋の影響だと思った。

 この居心地のいい空間と家屋。そんなものを作れて、長く愛されたら嬉しいだろうなと思ったからだ。


「夢はどんどん見なくちゃね」

 笑顔で言う楓香さんの目尻に小さな皺ができた。少し痩せただろうか?

 そういえば、僕が初めて楓香さんと出会ったのは中学一年。楓香さんはおそらく一回りくらい違うだろうから二十四、五歳だったと思われる。

 僕は今年十九になる。そうすると楓香さんは三十歳か、ちょっと超えたくらいだろうか。


 結婚したという話は聞かない。指輪も付けていない。

 今もお婆ちゃんと二人で居るその生活は、楓香さんにとって楽しい夢を見ることが出来る空間なのだろうか。


 *


 札幌での一人暮らしは刺激の連続だった。楓香さんも札幌の専門学校を出たと言っていたから、こんな刺激を受けたに違いない。

 夏休みに帰省したら、あれもこれも話そう。ケーキはいろいろ食べたけど、やっぱり楓香さんが作るケーキが一番美味しいことも言おう、そんなことを思いながら迎えた夏休み。


 僕は札幌の土産を持って牧野駅に降り立った。

 早く楓香さんと話がしたくて自然と早足になる。アーケードを抜けて横道に入ると、本屋はいつも通りそこにあった。しかし引き戸はしっかり閉じられているではないか。ガラスに貼り紙がしてあった。


『しばらく休業します』


 お婆さんになにかあったのだろうか。本屋の周りをうろうろと歩くと、ちょうど裏側にドアがあった。こちら側が生活空間なのだろう。

 呼び鈴を躊躇せず鳴らした。しばらくするとドアが開き、お婆さんが顔を出した。グレイヘアだった髪は真っ白になっている。あまりにも老け込んでいたので驚いた。


「ゆうくん、びっくりした。そうか、夏休みかい」

「はい。遊びに来ました。休業って……楓香さん、何処かに出掛けてるのですか?」

「楓香はね、半月前に他界したよ」


 その言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。

「他界……え?」

「どうぞ上がって。お線香あげてやって」


 お婆さんに促され仏間に入ると、確かにそこには楓香さんの遺影があった。

 戸惑いながらもお線香をあげ手を合わせる。何故? 事故? 病気? わけが分からず呆然と遺影を眺めた。

 お茶を出してくれたので、お婆さんと座卓に向き合う。


「急性白血病だって。少し前からだるそうにはしていたんだけど、ちょっと疲れてるだけだって言うから、そんなもんかと思っていたのさ。風邪の症状が出ていたからそれかなって思っちゃってね。したら目眩がするって言って倒れてさ。やっと病院行ったら即入院だったさ」

「──」

「抗がん剤治療を開始したんだけどね、容態が急変してあっという間さね」

「そんな……」

「たった三十一年の人生なんて、あんまりだよ」


 あまりにも急ではないか。これからもっといろいろ話が出来ると思っていたのに。大学を卒業して、いつかこの本屋をメンテナンス出来たらいいなと思っていた。これからも長く本とともに時を刻めるように──


「あの子には悪いことをしたと思ってる。あの子は小さい頃からケーキ屋さんになるのが夢だったんだ。それなのに、それを分かっていながら本屋を継がせてしまった。専門学校を卒業したあと、しばらくは札幌のケーキ屋で働いていたんだよ。恋人だって居た。でも私が体調を崩したら帰ってきてね……」

 お婆さんは堪えきれずに涙を浮かべた。つられて泣きそうになる。


「楓香さんは、お婆ちゃんが大事にしてきた本も好きだって言ってましたよ。ご先祖さまが開拓して建てたこの家も好きだって言ってました。だから──泣かないで下さい」

「──ありがとう。ゆうくんは、本当に優しい子だね。ゆうくんのこと、あの子は年の離れた弟みたいに思っていたよ。私が入院してるときも、楽しそうにゆうくんのことを話していたんだよ」


 楓香さんは僕の人生に大きな影響を与えた人だ。僕が大人になったらもっといろいろなことを語れると思っていた。早すぎるよ。これからだと思っていたのに──


 ──これからいろいろ経験して楽しいことがいっぱいだね


 楓香さんの言葉を思い出した。

 楓香さんはいろいろ経験しただろうか。楽しかっただろうか。

 僕も負けずにいろいろ経験して、楽しいことを見つけるのが楓香さんへの供養になるのかもしれないと、そう感じた。


 *


 しばらくして、札幌の僕のアパートに手紙が届いた。楓香さんのお婆さんからだった。

 本屋は畳むことにしたらしい。あの町からお店が一つ消えたのだと思うと切なかった。


 僕はお婆さんに手紙を書き、お婆さんからも手紙が来て、いつのまにか文通する間柄になっていた。

 大学を卒業する頃、お婆さんは札幌で暮らす息子、つまり楓香さんのお父さんと暮らすことにしたと連絡が来た。


 僕は札幌の小さな建築会社に就職したので、たまにお婆さんの顔を見に行った。そのとき初めて楓香さんのお父さんに会った。最初に出会った楓香さんが居なくなり、お婆さんやお父さんと交流していることがなんだか不思議だった。


 実家に帰ったとき、楓香さんの本屋さんまで足を運んだことがある。

 建物はそのまま残っていたが、人が居ない建物は朽ちていくのが早い。すでに廃墟のような佇まいだ。

 あんなにも風情があって居心地の良い場所だったのに──


 数年後、お婆さんが亡くなり、楓香さんのお父さんはあの本屋を解体することにしたようだ。

 無人家屋は自然災害にも弱い。取り壊して更地にして、土地は売却すると言っていた。僕は楓香さんが他界した歳、三十一になっていた。


 僕は楓香さんのお父さんに申し出た。お婆さんが生きていた頃、僕はお婆さんに夢を話した。

 お婆さんはすごく喜んでくれて、楓香もきっと喜ぶよと言ってくれた。


 さすがにあの土地を買うことは出来ないが、あの本屋の木材を買うことなら出来る。立派な梁や本棚は、ただ廃材にしてしまうにはあまりに惜しい。建築を学んだ今なら尚のこと思う。


 *


 僕は妻を連れて地元に帰った。札幌で気に入ったケーキ屋で働いていた女性だ。通っているうちに親しくなり、数年前に結婚した。


 彼女はこの土地を気に入ってくれた。酪農が盛んなこの界隈では品質の良い乳製品が手に入る。

 僕は楓香さんのお父さんから安く譲ってもらった本屋の木材を使い、遠くに牧草地が見える郊外に一軒の本屋を建てた。そこは本屋でありながら、ケーキを食べることが出来る。


 お婆さんに僕はこう言った。

「いつか独立できたら、本屋を作ります。ただの本屋じゃないです。そこではお茶をしながら美味しいケーキが食べられるんです。飲食が可能な本屋。お客さんはゆったりとした時間を本屋で過ごせます。絵画を見るように本の背表紙を眺めながら。そんな本屋さんがあったら素敵だと思いません?」


 もちろん、付き合っている女性が菓子職人だったから浮かんだ構想ではあった。

 でも楓香さんの存在が大きかったのも事実だ。もしもこんな本屋があったら、楓香さんはさらに美味しいケーキを作っていたに違いない。


 最初はあまりお客さんは来なかったが、そのうち少しずつ口コミを通じて人が来るようになった。

 お客さんは本を片手に、妻が作ったケーキを食べている。ゆっくり楽しんだあと、気に入った本を買って帰ってくれる人も居るのが嬉しい。


 この本屋そのものは新しいけれど、使われている木材には人の暮らしと歴史が刻まれている。その深いぬくもりはチェーン店にはないものだと自負している。


 開け放った窓から爽やかな風が入ってくる。

 新緑の香りをまとったそれは、心地良く僕の頬を撫でていった。



<了>

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