放念の書庫

Bamse_TKE

第1話

 何故だろう。街中にひっそり佇む古ぼけた本屋の入り口、非日常な光景にたじろぐ俺がいた。四十がらみの女性と思しき人物がその本屋を後にする姿、猛烈な違和感が俺の頭を駆け巡る。春を迎えるにふさわしい暖色のカーディガン、漆黒の長髪に乱れはない。その女性から感じる違和感は見た目ではない。虚空を見つめるようなその瞳は現実世界を映しているように見えない、まるで違う世界を見つめているように現実感がない。そして何もかもから解放されたような微笑みと軽い足取り、まるで春風のようにその女性は俺の前を通り過ぎた。もちろん女性の瞳は俺などを捉えることなく、彼女は文字通り吹き抜けて消えた。なんとも不思議な気分に戸惑う私ではあったが、妙に納得もさせられた。

【放念の書庫】

 噂が立っては消えるを繰り返す、不思議な本屋の通称だ。誰が呼んだか不思議な名前が付けられている。浮世の悲壮を消し去ってくれるが如きその名前、縋ってやってきたのは俺だけではないようだ。さきほどの女性を見ればわかる、彼女も忘れたい何かから解放されたのだ。だからあんなに軽い足取りで、あんなに幸せそうな笑顔で帰路につけたのだろう。俺もきっと救われる。追われる恐怖から自由になれる。古ぼけた本屋の入り口が天国への扉に見えた俺は、おそらく先ほどの彼女以上に笑顔で店のドアに手をかけた。



 先ほどの悩める相談者【俺】が放念の書庫に入ってしばらくしてから、近くの国道で発生した交通事故。かなりの速度をもって多くの車が走る幹線道路、その道路を車も気にせず横断しようとした四十がらみの女性、止まり切れなかったトラックに跳ね飛ばされ即死。トラックの運転手が頭を抱えながら、絞り出した声。

「何の躊躇もなくこんな道路を渡ってきたんだ。何の戸惑いもなく、まるで恐怖も交通ルールも忘れたように笑顔で渡ってきたんだ・・・・・・。」





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