大きな鳴鬼
五日目の夜。
俺はひどく混乱していた。
今しがた、お熊という向かい長屋の奥方から聞いた噂。異人の子どもの噂。それはやはり曰く付きで、人のようには思われなかった。
よくわからぬもの、鬼。
そうすると昨晩見た巨大なものはその異人の子どもなんだろうか。よく考えると異人とは異なる人と書く。異人の中の異人。それは、鬼?
いや、だがお熊の話でも、その子どもはとても小柄だったという。それは土御門の『とても体が弱いようです』に合致する。
異人の子どもとは無関係なのか、それとも夜に出るあの鬼はただの幻の類なのか。
ともあれ俺は今日も薄く障子を開けてじっと夜を待つ。
体感的にはそろそろ丑三つ時に差し掛かる。
揺れの大きさは壁よりは床。まるで地から水が湧き出るようなドウドウという揺れを感じる。それが床のどこかはわからない。やがてぐらりと空間をねじるような揺れが起こり、俺は急いで畳の中央に走る月光の細い線上に飛び込む。
どっちだ!? どっちから来る!?
体を低く伏せ、けれどもアレは下からくるのだと思い立って急いで体を跳ね上げた。そう思った途端、目の先の壁の下からもくもくと煙が湧き上がり、月光を飛び越えて急いで対角線上の北東に札を置く。
心臓がバクバクする。けれどももう期限まではあと2日しかない。見極めなければ。そう思って睨みつける。
昨日と同じようにその煙の輪郭を目でなぞると、奇妙なことに気がついた。なにやら妙なところに凹凸がある。隆々とした筋骨が複数のパーツに分かれ、それらは個別に蠢いているような気がした。
なんだ? もう少しせめて近くで見れればよくわかるのだが。けれども俺はこの月光を乗り越えられない。これは俺の守りだ。
この中にいれば安全なはずだ。事実、今まで安全だった。
そう思ってビクビクしながら眺めていると、そのうち肩の一部がピョコリと分離した、ような。それはそろそろと畳の目地に沿って月光に近づき、闇の中からそろりと黒い手を伸ばす。ぎょっとして思わず後ずさる。
そしてその手が細い月光に触れた途端、まるで火傷でもしたかのようにヒョイと腕を引っ込めた。そしてその一瞬、月明かりに照らされた小さな腕は毛むくじゃらで赤く、5本の指先には鋭い爪が宿っていた。
垣間見た姿はまさに、鬼。
けれどもその身の丈は30センチほど。そうするとこの目の前のものは小さな鬼の集合体なのだろうか。そう思って改めて見れば、目の前の何かは全体の動きとは別に、その各部がむごむごと蠢いているように見えた。だからもくもくと大きくなるように見えた、のか。
家を揺らすたくさんの小さな鬼。やはり、鳴家? そしてこれは人の子どもとしても小さすぎる、気がする。そしてたくさんいすぎる。
やはり昼間に聞いた異人の子どもの噂とは無関係なのだろうか。わからない。
わからないものは……鬼。
鳴家は妖怪。土御門の理屈だと、鳴家という妖怪だから家を揺らす。うん? だが目の前の何かがすっかり現れてから、自己主張をするような僅かな揺れは残るものの、空間を歪み切るような揺れは感じなくなっていた。
するってぇと、どういうことだ?
この何かは今、家を揺らしていない。ということは、鳴家ではない? 姿形は鳴家なのに。
何か目的があるのだろうか。ここに現れる目的が。
そういえば小さな鬼が様子を伺いにきたが、未だ本体が襲いかかってきたりすることはない。反対側でただその威容を、その存在感を示すだけで、細かくはモゾモゾと動いているものの、本体自体に動きは見えない。ただぼんやりと闇の中を漂う煙のようにそこにいる。俺を襲うわけでもなさそうだ。そのわけのわからなさは俺の精神を不安定にする。
お前は一体何なんだ。
お前は一体何をしたいんだ。
思わずそう問いかけたくなるのを踏みとどまる。
そうだ、土御門に言われていた。
話しかけてはならぬ。
結界を踏み越えてはならぬ。
この結界は俺の姿を相手に分からなくするためのもの。つまり今目の前にいるそれは、俺のことを認識していない。先程の小鬼も見慣れない結界というものを探りにきただけで、俺というものをはなから想定していないのかもしれぬ。
だから。
だから話しかけてこちらの存在を気取られてしまえば襲いかかってくるかも知れぬ。
それを体現するかのように、それはその場で全身をゆらゆらと振るわせた。
とすれば俺にできること。
これの様子を探ること。
『それで次は家のどこが一番振動しているか、探してみて下さい』
1番揺れているのはやはり目の前の怪異そのものだろう。今もふるふると振動している。
それ以外に表現のしようがない。とにかく南西の壁際でふるふると震えているのだ。
あいつは何をしている?
あそこで何かをしているのか? あるいはあそこにいることに、何か意味があるのか?
わからない。ぽたりと汗が、床に垂れた。
わからないまま、極度の緊張とともにじわりと夏の暑い夜は過ぎ、正しく一番鶏が鳴いて周囲がざわつき始めた頃、その何かは一言言いおいて、現れた時と同じようにしゅるりとその姿を消した。
誰か、助けて。
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