君と同じ夢をかなえたい

楠秋生

僕たちの夢

「え〜! 佳苗、引越しちゃうの?」


教室の片隅からそんな声が聞こえてきた。少し離れた席の会話は、途切れがちにしか聞こえない。僕は手に持った本に視線を落としたまま、意識をそちらに集中させた。


「え? 海外?」

「夏休みに行っちゃうの?」


まさかの情報に、思わず落としそうになった本をつかみ直し、必死で顔を上げるのを我慢する。二年半かけてやっとほんの少し会話ができるようになっただけの僕には、自分から話しかけにいくなんてことはできない。耳をダンボにして他の情報を聞き取ろうと努力するだけだ。


一年生の時からずっと同じ図書委員だった彼女と初めて話をしたのは、ちょうど一年くらい前の暑い日だった。女子とほとんど話をしたことのない僕と、男子と話をしているのを見かけたことのない彼女。初めて見たときから可愛いな、と思ってはいたけれど、話す機会など全くなかった。


きっかけは、初めて一緒に当番になった時に起こった出来事だ。


「今度からは返却日を守ってください」


三ヶ月以上期日を過ぎた本を返しにきた三年生に、決まり文句を言っただけなのに。


「ちゃんと返しにきたんだからいいだろ」


ゆるく胸元に引っかかっているだけのネクタイ。ワイシャツのボタンも三つほどしかつけていなくて、中に黒いTシャツを着たその三年生は、虫の居所が悪かったのかもしれない。目の前にいるのは、くそ真面目そうな黒縁メガネをかけた、いかにも気弱そうに見える僕と、おかっぱストレートを肩のところで切りそろえ、校則をしっかり守ったスタイルでちょこんと小さく座っている、こちらも気の弱そうな彼女。


そこから何を言われたのかは、実は内容なんてほとんど覚えていない。覚えているのは、彼女も巻き込んでグチグチ文句を言われ続け、心底疲れきったことだけだ。

二、三十分程たったころ、彼のポケットでスマホが鳴り、僕らはやっと開放された。彼が図書室から出ていくと、二人揃ってはぁ〜っと大きなため息をついた。


「疲れた……」

「疲れたぁ〜」


二人同時に口に出して、思わず顔を見合わせ吹き出した。


「あんな人もいるのね」

「あんな人もいるんだな」


またしてもハモって苦笑する。


その時からだ。顔を合わせたら話をするようになったのは。とはいっても、お互い二言三言、必要なことを話す程度だったけど。


彼女の引越しを耳にした三日後、僕たちはまた二人で当番になった。


「引越し、するんだって?」


帰る間際になって、思い切って言ってみた。委員の仕事と関係ない話をするのは初めてだったからか、彼女は意外そうに目を丸くして僕を見返した。いつも俯きがちの彼女と真っ直ぐに目を合わせたのは初めてかもしれない。


「海外って聞こえたけど」

「うん。お父さんの転勤で、オーストラリアに行くの」


それだけ言うと、彼女は帰り支度を始めた。海外に行くことがあんまり乗り気ではないのか、それとも僕と会話することに乗り気でないのか。一年たって長く伸びた髪が、さらりと肩から落ちた。

いつもの僕なら、そのまま終わらせてしまっただろう。


だけど。


「一緒に帰らないか?」


落ちた髪の揺れを目にした僕の口から、ポロリと思いがこぼれ出した。


歩いているだけでじんわりと汗ばむ夕暮れの堤防を、ぽつり、ぽつりと会話を紡いで並んで歩く。クラスのことや家族のこと。知らなかった彼女の内側が、薄皮をめくるように少しづつあらわになってくる。

時おり吹く風が心地よい。彼女の髪がさらさらとなびくのを横目に見ながら、僕のこともほんの少しだけでも知ってほしくて、上手くはない話を頑張ってしてみる。


堤防が終わるまであと五百メートル。橋を渡ればすぐ駅だ。いつもより心もちゆっくり歩く。川面の煌めきが特別に輝いて見えるのは、単に風の具合だけではないのかもしれない。


長く。少しでも長く、この時間が続けばいいのに。そう思っているのは、僕だけだろうか。


橋を渡りきる直前、ふと立ち止まった彼女が、さっきのように僕の目を真っ直ぐに見た。


「あのね、本屋……」


不意に川下からびゅうっと吹き抜けた風で、彼女の長い髪が巻き上がる。


「……になるのが夢なの」


はにかんだ笑顔が愛らしく、ドギマギした僕の返事は上擦ってしまった。


「僕も同じだよ。同じ夢を持ってる!」


髪を揺らして彼女が柔らかく微笑む。


「じゃあ、いつか。二人ともが夢を叶えてたら、どこかで会えるかもしれないね」


同じ夢を持ってる二人なら。いつか。


僕の初恋は、思いを告げることなく終わった。彼女の思いも聞かないまま。


淡い期待だけを残して。

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