Shall We Chess?-あなたとチェスを-

ルーシャオ

第1話 さようなら、伯爵。こんにちは、中尉。

 一国を揺るがす婚約破棄の醜聞の発端は、ある一夜の出来事から始まった。


 それはヴァルツ帝国内のバルリング伯爵とエルザ・イェーリスの婚約が、とある事情でバルリング伯爵から破棄された、というものだが——。


 夜会の喧騒を離れたバルコニーで、私はバルリング伯爵と外を眺めていました。古風で簡素な白のドレスは若い私には少し似合わないかも知れません。まだ青年と言って差し支えないバルリング伯爵もそう思っているかもしれない、と思うとちょっと気になります。


 今日こそ、ひょっとしてそろそろ結婚しよう、と言われるのかな。そんな乙女心がふわついて地に足が付かない有り様でしたが、何とか平静を装います。


 そこへ、バルリング伯爵は咳払いをしてこう言いました。


「エルザ、君は軍略家のお父上の名にふさわしい素晴らしい才能を持っている。その才能を私ごときのもとで腐らせるには惜しい」


 は?


 開いた口が塞がらない、とはこのことです。


 バルリング伯爵はさらに続けます。


「君とはチェスをして五十三戦五十三敗だ。読んできた戦術書は数知れず、何カ国語も操るほどの頭脳。だから僕にはもったいないと常々思っていた。だから、君には僕よりふさわしい人間がいる。そちらと結婚しないか」


 はい?


 私は固まりました。何を言っているの、この人。


 そして私の頭脳と女の勘は、状況を完璧に、正確に把握しました。


 バルリング伯爵、浮気している。


 その気配、この状況で婚約破棄、別の人間と付き合うことを勧める。どれを取っても、おかしい。


 しかし、おかしいことをおかしいと指摘しても、この状況は何ら変わりそうにありません。みっともないことをすべきではない、ここは流れに逆らわずにおくべきだ、と私の頭はすべき行動を弾き出します。


「そうなのですか……そのお方の名前は、お教えいただけませんこと?」


 私は冷静に、バルリング伯爵から情報を引き出そう、そう思いました。搾り取れるだけ搾り取って、二度と会わずに済むように、と。


 そんなことはつゆ知らず、バルリング伯爵は上機嫌です。


「ああ、それなんだが、シュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスという男がいる。将来有望な軍人で、きっと君のお父上のお眼鏡にも適うだろう! 僕から手紙を出しておくから」

「いいえ、そのお手間をかけさせるわけにはまいりませんわ。あなたは婚約の解消に手をつけてください。私は、父に言ってそのお方とお会いしてみます」

「そうか、分かってくれたようで何よりだ。それでは」


 バルリング伯爵はバルコニーから立ち去っていきます。


 その背に、私は小さくため息を投げかけました。







 即座に私は夜会から家に戻り、情報収集を始めました。


 とは言っても、バルリング伯爵家で仲が良くなっていたメイドや門番とやりとりをして、最近バルリング伯爵家に貴族の令嬢が訪れていなかったか、と尋ねるだけです。エルザは町娘に変装して直接出向き、路地裏で会話します。


「エルザ様、ここだけの話ですよ? 伯爵のもとに、フォルトナー侯爵家ご令嬢やヴァイラント伯爵家ご令嬢がいらっしゃっているんです。それも、どちらも複数回。あれは浮気ですよ、エルザ様というものがありながら、何て馬鹿なことを」

「はあ……そうなのね……」

「長く門番をやってきましたがね、今のバルリング伯爵は……平民を毛嫌いしているんですよ。外ではおくびにも出しませんが、エルザ様と婚約となって治るかと思いきや、まだそんな嫌がっていたとは」

「そう、やっぱり嫌だったのね。それならしょうがないわ。お父様に言って、婚約を解消するわ。あなたたちには世話になったわね、これ、少ないけど餞別として受け取ってちょうだい」


 私はメイドと門番へ高額紙幣を包んだ紙を渡し、バレないうちに戻るよう言いつけました。申し訳なさそうに、二人は帰っていきます。


 つまり、私との婚約を破棄しようとしているバルリング伯爵の本音はこうです。


「どうして一兵卒上がりの兵法家の娘と結婚なんか! 僕はフォルトナー侯爵からもヴァイラント伯爵からも娘と結婚しないかと誘われているんだ! 平民の娘となんか結婚できるか!」


 貴族たるバルリング伯爵は、皇帝のお気に入りの軍人であるイェーリスの娘エルザと結婚させられることが嫌だった、と。


 そして昨日の話では——バルリング伯爵が目をつけたのが、同じ貴族で軍人であるシュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスです。


 私はフェリクスについて何も知りません。何も知らないままではどうしようもない、情報がなくては戦はできないのです。


 私は家へととんぼ返りして、父の書斎にある名簿を漁りました。


 そもそもバルリング伯爵と私の婚約は、とある切迫した事情から生まれたものでもあるのですが——バルリング伯爵はそのことをどう思っていたのでしょう。そんなことよりも平民と結婚することが嫌だ、と思うほどだったのだとすれば、あまりにも幼稚すぎます。


 今更、自分を振った幼稚な男のことを思い返す必要はない。私は粛々と名簿を開き、ついにシュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスを見つけました。


 セピア色の顔写真を見るに、なかなか精悍な顔立ちで、少年っぽさが抜けきらないところもあります。成績や軍歴は十分に出世コースに乗っているし、現在の階級は中尉。二十歳という年齢を思えば、少し早いくらいです。それは貴族の子息だから、ということも勘案されているかも知れませんが、本人の実力だって必要です。軍はそれほど甘いところではないのです。


 となれば、フェリクスは有能な軍人と言えるでしょう。なるほど、私の父ドミニク・イェーリスは御年五十四歳で中将という地位にあります。その娘との結婚なら、貴族で将来有望な軍人だと十分すぎるでしょう。


 バルリング伯爵、うまいことスケープゴートを見つけたものだ。そこは私も感心しました。

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