幻のカトマンズの本屋

カトウ レア

第1話

 20代、アジアをふらふら旅をしていた。あの頃は今よりずっと物価が安くて、タイで600円出したら普通のシングルに泊まれたし、ベトナムで800円出したらおしゃれなお部屋に泊まれた。ネパールなんて、トイレは共同だけど、200円で朝ご飯、夕ご飯付きに泊まれた。信じられない世界である。安さに惹かれてアジアをふらふら旅する若人が多かった。旅の入口は、もちろん沢木耕太郎の「深夜特急」で。

 何回目の旅の時、わたしはネパールのカトマンズにいた。カトマンズは、世界から登山客がまず起点として訪ねるので、古着の登山ウェアや中古の登山用具が、所狭しと市場で売られていた。登山家のみなさんは、帰り道は軽荷が好きらしいと読んだ。街には古本屋もあり、日本の本も1コーナー、置いてあった。

 日本を経って一ヶ月、手持ちの本を読み干し、わたしは活字に飢えていた。今から20年前は、パソコンを持参しての旅の人はまれにいたが、主流はインターネットカフェ。毎日行くから、高くなる。本当に必要な外務省のページくらいしかみない。要所要所はコピーをインターネットカフェに依頼する。そして、なめるように印刷された記事やメールを読む。読めば読むほど、郷愁がつのる。当たり前の毎日の、当たり前の幸せが。白米と味噌汁も恋しい。日清の普通のカップラーメンが食べたい。油とスパイスに胃が疲れてきた。

 3日後にヒマラヤのアンナプルナ山脈の拠点へ移動するわたし。カトマンズの古本屋に狙っている本があった。瞬時に買おうと思ったけど、買えば再読してしまうから、最後にしようと思った。そして、旅立つ1日前。さあ、買おう、山登りの寂寥と孤独に相応わしいパートナーとしてのあなたを。

 しかし、もう本は売れていた。だれか持っていただろう。似たような道程の人がいたのだろうか、それとも、たまたま入った人が買って行ったのか。わたしは、本屋の棚の前に立ち侘びた。あの本がないすきまをにらみながら。時が止まったみたいな瞬間だった。よく食べ物の恨みは忘れないというが、わたしもあの一冊の本の恨みは忘れやしないよ。刻まれてる。

 そんな気持ちを抱きつつも、アンナプルナ山脈のトレッキング一週間の旅は、怪我もなく終えた。え?書いたかった何の本か聞きたい?読んだことがある本だけど、ネパールで読みたかったの。


「神々の山嶺」夢枕獏


文庫本の下巻かな。エベレスト登山にまつわるミステリーと登山の模様。登山の荷物をグラム単位で揃えるところと一本のロープと「岸よぅ」の声掛け、たまりません。でもね、20年経って思うの。確かなのは、今でも昨日のことのように思い出せる記憶がある幸せを。目当ての本がなかったからこそ、ドラマって生まれるかも。また、あの雑踏のネパールの本屋で、山の本を探してみたいな。


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