紅想歌(くれないそうか)

@tukifuyu

第1話

 薄紅うすくれないに染まる空間。

 甘く重だるい空間に身を置くようになって久しく、現世うつしよは、遠く垣間見える彼方のことであった。深いまどろみの中に沈むようになって、どれほどの時が過ぎたか分からなくなった頃、幾重にも重なる薄衣の隙間を縫うように、一つの気配が届いた。

 長い睫毛に縁取られた瞼を僅かに開き、気配の元を探る。

「間違いない。」

 ややあって、そう確信する。

「今一つは、いずこか・・・」

 鈍く澱む意識を引き起こし、感覚の枝を伸ばしていく。薄く開けられた瞼の裏で、虚ろな瞳が小刻みに揺れる。

「みつ・・・けた・・・」

 探していた気配を探り当て、ゆっくりと目を開く。

 鉛のように重い手を緩慢に上げ、頭上にかざす。

此度こたびこそ・・・」

 そう呟くと同時に、体が浮上していく。薄衣を払い、上へ、上へ。視界は次第に明るくなり、やがて、真っ白になった。






「・・・あ~、目がいてえ。」

 薄暗い廊下から外に出れば、薄曇の空でも眩しく感じる。和也は思わず片手を庇のようにかざして空を見上げた。

「よ。お疲れ。」

 後ろからポンと肩を叩いて、髭のある若い男が通り越していく。それが、バイト先の先輩だったので、慌てて頭を下げた。

「あ、お疲れ様っす。」

 それに答えて片手を挙げて去っていくのを見送り、もう一度眩しそうに空を見上げてから、雑踏の中へと踏み出した。

 早春の風は未だ寒い。道行く人の中には、早くも春の装いをした人もいるが、少しでも外にいる時間を短くしたいのか、皆、足早に動いていく。

 和也は、羽織っていたジャケットを襟まで合わせ、両手をポケットに突っ込んで、首を竦めながら歩いた。

 そのうち、少し先も見通せないほどの人混みの中に突入した。商店や屋台の呼び込みが銅鑼声どらごえを張り上げ、賑やかな音楽も交差してやかましい。

 暫くすると、人混みの中を歩くのも気分が悪くなって、一本道を外れた。人間の数は減ったが、電子音の混じった広告音楽はこの通りにも追ってくる。

 東京に始めて来たときは、この人の多さに驚いた。活気があると興奮するよりも、蠢き合う人の群れを気持ち悪く思った。彼の故郷は、もう少し落ち着いたところだった。

 ビルのガラスに映った自分の姿が、ふと目に止まる。黄色と黒の混じったぼさぼさの頭。無精髭がまばらに伸びた顎。着古したジーンズとジャケット。気合を入れて髪を染めたこともあったが、今はそんなものはどうでもいい気がしていた。身なりを気にする方では元々なかったが、ガラスに映った自分は、あまりにも見栄えがしなかった。

 再び大通りに突き当たり、人の波に乗る。通りに向けて開けられた店の扉から時折吐き出される集団を避けながら、波を乱さないように。雑多なことを思いながら、しかし、何も考えず。

 やがて、道が軽い上り坂になり、上野公園が見えてきた。

「うおっ!」

 横から飛び出てきた影にぶつかりそうになり、思わず立ち止まる。

 途端に後ろから衝突されてよろめいた。驚きと非難の混じった視線を向けながら、それでも立ち止まろうとせずに何人かが通り過ぎていく。後は何事もなかったかのように無関心だ。

 流れの中で急に止まればこうなる。何も言われなかったのは幸いだった。もしそうであれば、たとえ自分が悪くても、言い返さずにはいられなかっただろうから。

 再び歩き出そうとしたとき、事の発端と目が合った。まだ小さな、七歳くらいの少女だ。素直な黒髪を背中まで下ろし、前髪は眉の辺りで切りそろえられている。襟にレースのついた薄桃色のワンピースを着ているが、顔のつくりといい、大きな黒い瞳といい、日本人形のようだと思った。

 感情を感じさせない瞳でじっとこちらを見ていた少女は、何の前触れもなく顔を逸らし、背を向けると、通りの向こうへと駆け出し、すぐに見えなくなった。その背を追って顔を上げると、上野公園の枯れた木々が目に入った。

「・・・じき、桜か・・・」

 まだ、蕾すらはっきり分からない。だが数週間後には、あの木々の下にも大勢の人が押し寄せる。

 また、この季節だ。

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