不眠に効く本屋
江戸川台ルーペ
「眠れなければ本を読めばいいのに」と彼女が言った
「そんなの分かってる。でも眠れないんだ」
僕は隣を歩いている彼女の、まるで教科書のような、お手本のような、絵に描いたような、先祖代々から受け継いだような、いやそれはちょっと違うかも知れないが、ともかくありきたりな言い方にいささかガッカリしながら、いや、ガッカリというのは言葉が乱暴に過ぎるのかも知れないが、むしろ、そういう答えを彼女が発するのであろうという予測さえ僕はしていたはずなのに、それが偶然的中したからといって、「ガッカリ」という気分の様相を表す一言でそう決めつけてしまったのなら、あるいは決めつけようとしているのなら、やはり人間にとって、もしくは人類にとって寝不足という身体的異常ステータスは、癌や胃下垂や水脹れや歯痛と同等かそれ以上に、人間すなわち、今まさにこの現状においては僕を指すのだが、もっとざっくばらんな自意識で語るのであれば、まさにこの俺にとって、社会的に致命的な誤謬を振り撒く可能性が著しく高くなる状態をはらんだ危険な身体的状況に置かれていると言えた。
社会的に致命的な誤謬。
「あたしなんか、小説とか読んだらピューって寝ちゃうけどな。おうち帰ってお風呂入るでしょ、テレビみるでしょ、ご飯食べるでしょ、髪乾かすでしょ〜」
隣をテクテク歩いている彼女は僕と同じ高校を通うクラスメート、というだけで、彼女という呼称をした事で僕と彼女がいわゆる恋人的関係というふうにとらまえられたとしたら、それはあなたが勝手に思い込んだ事であって、僕に、もっとこう、言わずんば公的な目線からして語らせていただけるのなら、「
「かわいい」
「つ、付き合いてえ」
という気持ちがある事は確かだ。なんなら、僕は少しだけ勃起さえしている。しつこい寝不足は勃起を促すのだ。しかしそれは単なる身体の状態であって、しかも僕における僕にだけ起こった身体的事象に過ぎないのであって、つまりどうでも良かった。世界の片隅の勃起。劣情を催している訳でも何でもない、単なる勃起である。
「あれ? 家に帰ってから〜、ご飯? の前に、お風呂? ん? そういえば、昨日の水ダウみた? 黒ちゃん、気持ち悪かったねぇ〜」
彼女は学校に着くまでの間、たった数分の間に25回から30回は話題が変わるのが常だった。以前など、父親の屁が臭い、スタートで、ジンバブエの人喰いサイが国境を渡ったため、インターポールによって指名手配されたという話題に切り替わった
そうした訳で、俺の寝不足は水ダウの黒ちゃんの首の後ろの皺が、古文の教師の肘の裏の皺とよく似ていると思うんだけど、という話題にとって代わり、皺と言えば、犬の皺は可愛い、からの昨年死んだおばあちゃんは毎週日曜日に近くの洋菓子店で七色入りのマカロンを買い求め、一週間一個ずつマカロンを食べる習慣を持っていたが、月曜日には決まってベージュ色のマカロンを食したというが、ベージュ色とはま、まさか醤油味なのでは? というところで教室にたどり着き、彼女は「バイバーイ」と手を小さく細かく振って自席に着いた。そうして僕の寝不足は、群馬県の片隅で車にはねられて死んだ老婆が毎週月曜日に口にしていたというマカロンに姿を変えて俺の鼻から入り、喉と合流する奥の奥で一度つっかえた後、ゆっくりと食道を通って腹に収まった。それは醤油というよりも、煮詰めた砂糖の苦味を伴った古びたキャッチャーミットの匂いような味だった。今なら眠れるか? 僕も自席に着いて時間割を確認するふりをして目を細めてみたが、眠りはその存在をおくびにも出さなかった。
この睡眠障害が訪れたのはテスト勉強がきっかけだった。僕は古文が苦手で、動詞やら慣用使いなどの変形を一夜漬けで頭に叩き込んでいたのだが、気が付けば朝となり、されど身体的な不調は一切なく、食堂に降りて朝食を促されるままにとって、学校へ向かった。まあ、眠れない夜というのも良いだろう、と僕は思った。僕はこの十数年間、眠れなかった事など、一度も無かったのだ。確かに、受験や、歌のテストの前日など、緊張する前日には寝付けが悪かった事もある。しかしやがて眠りは穏やかな川の流れのように僕を確実に捉え、下流へと運んでいった。そして眠らなかった方がマシだった、というような不快な目覚めを授けられた。テストの出来は、赤点は免れた程度と予想されたが、それは僕にとって上出来に分類される出来事であった。
テストが終わり、数週間経っても、僕には睡魔の誘いも、一時の意識の隔絶も訪れる事はなかった。僕は手元のゲーム機を何度も充電しながら夜通し遊び、あるいは眠ろうと布団に入ってカラマーゾフの兄弟を読破し、ロシア語の表記についてインターネットで検索し、海賊版の映画を動画で見てその感想を匿名ブログに書き綴ったりした。いつかは眠りがやってくるだろうと思って。しかしそれは十日間経ってもやって来なかった。そうして僕は彼女に打ち明けたのだ。最近眠れないんだ、と。さっきベージュ色のマカロンに姿を変えたやつだ。どうでもいいけど。やはり眠気は僕の後ろからじっと眺めるだけで、入ってこない。一体、何だっていうんだ。
◇
しかし、いつもの彼女と違うところは、学校から帰る時に僕を待っていた事だった。これは数年間共にした学園生活(学園生活!)において、初めてのことだった。彼女は本屋に行きましょう、と敬語で言って僕を誘ってきた。本屋? 本屋。本屋に何をしに行くのかを聞くと、本屋に行くとうんちがしたくなるらしいのです、と彼女はまた敬語で返答してきたので、そうですか、と僕も敬語で答えました。そうして僕たち・私たちは肩を並べて下校し、駅前の商店街の本屋に向かったのです。何となく言葉少なかったな。話題は十五回くらいしか変わらなかった。
本屋といえば! という大きなビルヂングに埋蔵されているほにゃほにゃ書店を素通りして、彼女は商店街のさらなる奥地へと向かっていった。
「おい、ここじゃないんか?」
と俺が彼女に声を掛けますと、そこにわたくしが求める本は置いていないと彼女は言うのです。うんち感別名便意を求める場合、その本の性質というのはジャンル・タイトル・筆者・出版社・運送会社・支払い方法・カバーを掛けるか否かというよりも、本の物理的な量が重要なのではないですか? と僕としても提起したい気持ちでいっぱいになりましたが、彼女はスタコラと夕方のおセンチな雑踏を抜けて先へと進むもんで、仕方なくついていったのであります。一体あなたは何を求めているのですか、僕は眠りが欲しいです。正確に言えば、眠りたくはないけど眠った方が良いという気がするのです。
彼女が辿り着いた本屋というのはまるで私邸のような白い二階建ての建物で、玄関の脇に「夢の本屋」という木で出来た大きめの黒縁の看板が立っていた。彼女が背伸びをしてピンポンを押すとガチャリと音を立て、鍵が開いたようでした。そして彼女がドアノブを慣れた手つきで回すと、その夢の本屋の玄関に入ることに我々は成功したのです。玄関から既にびっしりと壁中に5段から6段の本棚が据え付けられており、あらゆる本が、文庫本から辞書から海外製のような背表紙の大きな本がびっしりと。僕は以前テレビで知の集合体?というような、とにかく頭が良いとされる有名人の家を見たのだが、そういった感じだった。ただそっちの場合は個人の嗜好である訳なんで、しかも頭がいい有名人なんだから、本の場所なんか全て記憶しているさもありなん、さもアリナンキンポーなんだが、ここは夢の本屋なんだから、一体在庫管理はどうなってんだ! 棚卸しは!? 責任者出てこい! 逮捕だ! てな訳でして。どういう訳じゃよ、メイザフォースウィズユー。その頭の良い人はもう死んじゃったらしいです。死んじゃったら優れた脳も甲羅焼きみたいな感じになっちゃうんだね。そういう事を考えながら背表紙などをゆっくり眺めていると、古びた昭和の駄菓子屋みたいなレジが置いてある、見方によってはオシャマな会計場があって、そこは果たして無人であった。在庫管理どころか金銭管理もかなりギリ。夢の本屋というだけあってもろもろ人間に対しても夢見がちな管理人か小売人が運営しているみたいだ。そして彼女は結構急な階段を勝手しったる吾輩の家とでも言うが如く登っていったのです。一応本屋だし吾輩としました。パンツですか? ええ、見えませんでしたね。確か白だったと思いますって見えてんのかい! はまみえ(ズキューン!)
階段を登る両脇にも本がびっしりと収納されていて、LEDの、例のあの人に対して「明るけりゃええんやろ、明るけりゃ」みたいな馬鹿みたいな従順照度の下で既にもう、見飽きたと思えるくらいの背表紙がこちらを向いている訳です。彼女は「きたきた、いや、くる? くるかも?」などと俺には到底分からない感覚についてブツブツと言いながら先を歩いているのです。そして二階の天井が高くてとても広い、四方をガッツリとそうした本棚に囲まれた売場(何だと思う)の、本棚が途切れた大きな窓の前に丸いテーブルと、テーブルを挟んで椅子が二脚据え付けてあって、俺は助かったとばかりにそこに腰を掛けたんですよね。結構歩いてたから疲れたじゃん。彼女も僕の前の席にどさっと荷物を置いて、「きた」と一言いってどっかへ消えて行きました。きた、はいいけど、何故に俺をそんな睨んで行くんだ。別に俺はお前の◾️◾️を邪魔する気はねえぞ、などと一応乙女だから◾️◾️でカバーしたりする訳なんだけれども。何はともあれ、彼女が然るべき場所へ向かい、用を済ませている間、シインと周囲はしておるのです。窓から外を見たら、外はおセンチな? エモいな? オレンジ色になってて、窓のすぐそばの枝葉越しに? 帰路についてるんじゃないかと思われる急足のお兄さんも、おねーさんも、おばーさんもゆっくりと見えてくる。カラスが鳴く声とか聞こえてきちゃって、もう今日も終わりかっつって。っていうかここはどこなんだっつって。付いてきただけで道なんか全然覚えてないし、まあ別にどうでもいいかっつって。そんな事より今日こそ俺は眠れるんだろうかつって。俺は何となく頬杖をついてそうした事を考えて、あわよくば、あわよくば睡魔が俺を捉えないだろうかっつって、センサーをビンビンに張り巡らせていた訳だけれども、そんなの一切来なかった。来やしねえ。仕方ないから目を閉じてみたんだけど。だって暇だし。
次に目を開けたら、目の前には知らん本がドサっと積んであって、俺の前にはコーヒーカップのココアに白いマシュマロが甘い匂いを点てていやがって、何だこれ、すげえ癒されるんだけどって思った。古い本の匂いと甘いココアの匂いが混ざって脳天直撃。ズガーンつって。前の席には彼女がリスみたいな顔をして、分厚い大きな本を開いて熱心に読み耽っていたんです。
「手は洗った?」
と俺が聞いてみると、殺すぞって返事が小さく、されどクッキリと、明確な嘘半端じゃない殺意を持って彼女の小さな口から発せられたのです。一瞬も本から目を離さず。スッキリしたみたいで良かった、などとは僕も言いませんよ。これでも人には常に優しくありたい、人畜無害でありたい、そして少しだけ眠りたいと思っているだけの小市民、いや、小学生ですから。小学生じゃねえよ。まあどうでもいいや。その代わりに俺は彼女に「俺、寝てた?」って聞いてみたんです。そしたら彼女はチラッと、まるでみんなにイジメられて可哀想な男の子を「でもあたしは君の事嫌いじゃないけど、一応みんなの手前、ほら」みたいな目付きで一瞬俺をみて、「君が自分が寝てたと思うんなら、寝てたんだと思うよ〜。知らんけど」って言った。確かに、そりゃそうだ、間違いない。Right、正解。右。そっかー、って俺は思って。彼女が本にリスみたいな顔をして字を追っているのを眺めていると、ほんのりと、じんわりと、俺の瞼は閉じてきて。グンナイ世界、つって。
終
不眠に効く本屋 江戸川台ルーペ @cosmo0912
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