あのアイドルに会った話

山田貴文

あのアイドルに会った話


「ここ、どなたかいらっしゃいますか?」


 聞き覚えがある女性の声。えっ。私は顔を上げ、女性の顔を見て固まった。そのにっこりと微笑えんだ顔は。


 休日昼間。私はショッピングセンターのフードコートでコーヒーを飲みながら本を読んでいた。まだ昼食はとっていない。


 すいていたフードコート内のテーブルは、いつの間にか家族連れで埋まり始めている。ちょうど私の隣が空いていたので、女性が声をかけてきたのだ。


「いません。どうぞ」


 何とか声を絞り出した。


「シリウスさんですよね?」


「うわっ、はい」


 シリウスは私のSNS上でのハンドルネームだ。そして、飲み物を持って目の前に立っているのは、私が何年も強力に推していた元アイドル・坂井エミだった。


 そう、あの坂井エミである。


「お久しぶりです」


 現役時代さながらの華やかな笑顔。私は彼女が所属していた4人グループが国民的アイドルになる前、無名時代からのファンだった。サイン会や握手会といった接触イベントに足しげく通い、彼女にハンドルネームを覚えてもらっていたほどだ。いわゆる古参ファンというやつである。


 彼女たちの人気が爆発してテレビやCMに出たり、スタジアムでライブを行ったりするようになると接触イベントはできなくなり、それから10年以上たつのだが、まだ私の顔と名前を覚えてくれていたのだ。


「お元気そうで」


 ドギマギしながら声をかける。


「はい、おかげさまで」


 彼女は飲み物をテーブルに置くと、私の横に座る形になった。


「あの頃はお世話になりました」


 笑顔で頭を下げるエミ。


「とんでもない、こちらこそ」


 とは言ったものの、私はどぎまぎした。彼女に対しては後ろめたい気持ちがあったのだ。


 エミは席に座り、飲み物をひとくち飲む。しばらくの沈黙の後、彼女はぽつりと言った。


「調子に乗りすぎていましたかね?私」


 私は懸命に首を横に降った。いえ、そんなことはと言いたかったが、声が出なかった。エミはそんな私の内心を察したかのようにフフッと笑った。


「どうすればよかったのでしょう?」


 それは私へというよりは、自分への問いかけのようだった。


「あなたの幸せを願っていなかったファンは1人もいませんでしたよ」


 かろうじて声を出すと、エミは微笑みながらうなずいた。それから私たちはとぎれとぎれに少しずつ話をした。まるで、お互いがどこまで言っていいのかを探るように。


 数年前の坂井エミ結婚宣言はまさに青天の霹靂だった。結婚相手はいい演技をするものの主役級とは言えない若手俳優。事前に記事になるどころか、芸能マスコミは全くノーマークだった。


 ファンは驚きと共にエミを祝福した。おめでとうの嵐。しかしながら、私を含むエミ推しは激しいショックを受けた。


 もちろん、自分がエミと結婚できると思っていたファンなど皆無だった。彼女はそんな存在ではなく、憧れと崇拝の対象なのだ。それでも、私たちエミ推しは心に巨大な重りを投げ込まれたような落ち込みと視界から色彩が消え去る虚無感を抱え込んだ。私の知り合いでも同じような衝撃を受けた者は多数いた。


「わかってくださいますよね。心からおめでとうとは思ったんですけど。でも」


 私が言葉を絞り出すと、エミは微笑みながらうなずいた。


「もちろんです」


 エミの所属するアイドルグループは握手会などの接触イベントをやらないことがファンの誇りだった。疑似恋愛ではなく、自分たちは純粋に彼女のパフォーマンスを愛しているのだと。


 だが、それが仇になった。SNSに結婚をショックだと書いたエミ推しは同じグループのファンから集中攻撃を受けた。おまえはガチ恋か?とあざけられ、祝福できないならファンをやめてしまえと罵倒されたのだ。


 エミのファンがショックを激しいショックを受けていることはエミ、そして所属事務所にもすぐ伝わった。彼らは私たちが思っている以上にファンの動向に敏感だ。最初の宣言以降は、特にグループのライブや出演するテレビ番組で一切エミの結婚に触れることはなかった。


 そうして数ヶ月たった。まるでエミの結婚などなかったかのようにファンの中に生まれた軋轢は時間と共に沈静化していった。


「私たち、ファンの方にずっと言っていたじゃないですか。結婚しても、子供ができても、一生アイドルを続けるんだって」


「はい」


 これまでの女性アイドルで誰もし得なかったこと。彼女たちならそれができるとファンは信じていた。もちろん、私もその一人だ。


 ある日、事件が起きた。もちろん犯罪ではないが、私たちファンにとっては間違いなく事件だった。エミの夫がエミと自分のツーショット写真をSNSにアップしたのだ。グループの地方ライブの後に2人でプライベートの旅行に行った仲睦まじい写真を。


 結婚した夫婦が自分たちの楽しかった旅行の写真を皆に披露する。道徳的には何の問題もない話である。しかも、結婚の事実をみんな知っている。だが、私たちファンには何とも言えない感情が広がり、それにエミがとどめを刺した。


「あれ、本当に無意識にやったんです。何も考えていなくて」


 夫がアップしたツーショット写真にエミが「いいね」を押したのだ。写真サイトのいいね、誰もが普通にやっていることなのだが、これが波紋を呼んだ。ツーショット写真がエミ公認となり、事態が大きく動いた。


 ファンの間からあんな写真は見たくなかった、夫は妻の職業を考えろと批判が殺到した。スポーツ紙でこのツーショット写真が記事になった時もコメント欄では9割がアイドル続けるなら、こんなのやめろ、誰が見たいのだ?と否定的な声だらけだった。


 私もこれが微笑ましい、おめでたい絵柄とは思いつつ、こういうのは正直勘弁して欲しいと寝る前にSNSでつぶやいた。


 そして朝起きると私のつぶやきは大炎上していた。そう、ふざけるな、ファン辞めちまえと口汚く罵られる返信コメントであふれていたのだ。ショックなことに、中にはオフ会で面識ある人のハンドルネームまでがあった。


「今のところSNS炎上は人生最初で最後ですよ」


 私は思い出して苦笑した。


「本当にごめんなさい」


 エミは頭を下げた。


「いえいえ、びっくりしただけです」


 当初の否定的な意見や感想を上書きするようにエミちゃん、気にするな、私たちはもっとエミちゃん夫婦の幸せな姿をたくさん見たいのだとの投稿がSNSにあふれた。


「あそこが分かれ道でしたね」


 エミはポツリと言った。


 エミには2つの選択肢があった。もとのようにあたかも結婚などなかったようにアイドルを続けるか、それとも開き直って既婚者であることを前面に出すか。


 そして彼女は後者を選んだ。


 SNSへ夫婦の味方によってはいちゃいちゃ写真を連続投稿し、テレビ番組でも積極的に夫婦の生活あれこれを語った。見方によっては開き直ったようにも思えたほどだ。


 少しでも批判的な意見を言うファンは仲間からつるし上げられ、集中攻撃を受けた。そして、誰も何も言わなくなった。


 実は結婚発表の時から兆しはあったのだが、その頃から露骨に変化が見え始めた。ライブ会場でエミのメンバーカラーを身につけるファンが急激に少なくなったのである。それだけではなく、グループ全体の動員数も減り始めた。それまではチケット獲得が激戦だったが普通に取れるようになり、ライブ当日は空席も徐々に目立ってきた。


 そんな状態になってからしばらくして、エミはグループ脱退と芸能界引退を発表した。それを嘆き悲しむ声はもちろん多かったが、私を含む多数のファンは状況からやむなしと内心では思っていた。


「ついて来られるファンだけ、ついて来てくればいいと思っていたのですが。うぬぼれていましたよね」


 すぐにエミの言葉へ反応することができなかった。そう、エミが結婚生活をオープンにし始めた頃、私自身もライブへ行かなくなってしまったのだ。いや、行けなくなったと言うのが正しい。エミを見るのがつらくなっていた。あれほど追いかけていたのに。


 だから今、エミとあの頃の話をするのはとても苦しい。ただ、このまま何も言わないわけにはいかなかった。考えながら、言葉を絞り出す。


「それまではエミさんの半分しか見ていなかったんですよね、ぼくたち」


 きょとんとした顔でこちらを見つめるエミ。


「アイドルとしてのエミさんしか見ていませんでした。それが結婚という話になって突然もう半分、プライベートのエミさんが見えてきました。もちろん、人間なんだから当たり前なんですけどね」


「・・・・・・」


「偉そうな言い方ですけど、ぼくたちファン、たとえば10万人でエミさんを支えているつもりだったんです。それが10万人よりはるかに大きくて強い1人、旦那さんが現れた。そうなると、もうぼくたちは必要ないのかなと思っちゃって」


 厳密に言うと、ファンからエミに対して広義の恋愛感情のようなものがあったことは否定できない。たとえ実際に彼女をどうこうできると思っていなくても。ただ、それをここで言うのは適切ではなかった。話がややこしくなるだけだ。


「つまり、私はファン全員よりもっと大きい1人をみんなに見せちゃったってことですね」


 私はうなずいた。もし結婚当初のように夫の存在をあまり表に出さなかったらどうなっていたのか。エミは今でもアイドルだったのだろうか。実際にどうなったかは誰にもわからない。


「やっぱりアイドルと結婚の両立は難しかったのかな」


「何とも言えませんね」


「でも」


 エミは急に顔を上げ、目を輝かせた。


「残りの3人はきっとうまくやってくれますよ」


 私は彼女を見つめることしかできなかった。


「みんな賢いし、私のやってきたことをずっと見ていたから。あの子たちならきっとできます」


 エミ脱退後、グループに残った3人は今もアイドルとして活躍している。ライブでは全盛期ほどのファン動員力はないものの、テレビで彼女たちを見ない日はない。そう遠くない日、彼女たちも順次結婚していくのは間違いない。


 エミのスマホが鳴った。彼女は画面を見ると私に言った。


「旦那がここに来ます。会っていきますか?」


「会わない方がいいと思います」


 私は笑顔で首を横に振った。


 エミはくすくすと笑った。


「そうですよね。じゃあ私行きます。たくさんお話してくださってありがとうございました」


 と、彼女は立ち上がって遠くを見た。


「あっ、来た。シリウスさん、あっちを見ないで。じゃあ、目をつぶって百数えてください。その間に旦那と見えない所へ消えますから」


 アイドルだった頃そのままの笑顔。これが大好きで、ずっとエミを追いかけていたのだ。それが今、ぼくだけのために向けられている。何て幸せなんだろう。


 言われた通り目を閉じ百数えた。そして目を開けると、エミの姿はどこにもなかった。


 その時、私のスマホが鳴った。女房からメールだ。買い物が終わったとのこと。昼ご飯はこのフードコートで食べるかと聞いてきていた。


 私は、いや別の場所で食べようと返信した。

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