第3話
俺が結衣を好きになったのは、いつからだっただろう。
『椎名の家の娘とは絶対に仲良くするな』
物心ついた時から両親にそう言われてきた。
その頃はまだ両親が自分の全てだったので、椎名って人は二人にこんなこと言わせるくらい悪い人なんだなって思ってたっけ。
でも、実際は全然違った。
公園で泣いている姿を見つけた時から結衣は俺が知る中で一番可愛い女の子だった。どんぐりの背比べなんかじゃない圧倒的に整った容姿。一目惚れだったような気もするが、この頃は何よりも両親に対する不信感が強くなったのを覚えている。
(なんだ、全然悪い人じゃないじゃん)
彼女の口から名前を聞いて、心の中でつぶやいた。
膝を擦りむいた傷が痛そうだったのに、俺の迷惑になるまいとでも思ったんだろうか、泣きそうな顔で「大丈夫」なんて言うもんだから結衣が良い子なのはすぐに確信した。
結局俺が彼女を半ば強引に家までおぶって連れて行き、鉢合わせた結衣の母親には散々叱られた記憶がある。挙句には俺の両親を呼べとまで言い出したので子供用の携帯で呼んでみれば、この世の醜さが全部詰まったかのような罵詈雑言の応酬が始まって、出先から帰ってきた結衣の父親まで合流し地獄はさらに深みを増した。日が暮れるまで言い争ったあと、喧嘩別れのように俺は家に連れて帰られた。
「これでお前もよく分かっただろう、椎名家の醜さを。次に同じようなことがあったら必ず向こうの家族全員に謝罪させてやる。とりあえずお前は、椎名の家に行ったことを一晩かけて反省しろ」
凄まじい形相で父が言い放ち玄関の外に置き去りにされるが、それは覚悟していたことである。
問題は父の言葉の前半部分。
話では俺が木の上にボールを乗せてしまったことが結衣の怪我の原因になっていたはずなのに、どうすれば相手に謝罪させるという発想になるのか今でも全く理解できない。
しかし、父の言う「家族全員」に結衣が含まれていたことは疑いようがなく、結衣が泣きながら俺に謝ってくる姿を想像してしまってからはもうダメだった。
その気になったらあの人は結衣を泣かせられる。
背中に冷水をかけられたような気持ち悪い緊張が俺の体を支配した。
何がきっかけで父が怒るかわからない。だから小学校で結衣と再会したときも極力関わらないようにした。彼女の声に素っ気なく返事するたび胸が裂けるような気分だった。当然、限界はすぐにやってくる。
「お願いだよ椎名さん。俺は両親が怖いんだ。君もそうでしょ? ……お願いだから、俺と仲良くしようとしないでくれ」
人のいない小学校の裏庭に結衣を呼び出して、なんとか絞り出した言葉がそれだった。
一瞬顔を歪ませた結衣は俺の目を見るや凛とした表情を取り戻す。
「それは、早川さんの本心?」
「…………ああ」
「嘘だよ。だってほら、こんなにも辛そうな顔してる」
両頬を結衣の手のひらに包まれ目元を指で拭われる。
どうやら俺は泣いていたらしい。
「私、早川さんと、……隼人くんと仲良くなりたい」
初めて名前を呼ばれる。
「ダメだよ。俺たちの家族が許してくれない」
「あんな人たちどうでもいい。隼人くんはどうしたいの?」
俺の両頬に手を添えたまま訊いてくる。この頃から結衣は自分の可愛さを理解していたような気がする。
「どうしたいかって、そんなの」
決まってる。
昔からずっと仲良くするなと言われてきたのに初めて出会った時から良い子だと確信でき、小学校に入ってからは避けようとしても避けきれないほどの美点と笑顔に溢れる美少女。
仲良くしたくないなんて、本心から思うはずがない。
「俺だって仲良くしたいよ。でも無理なんだ。町のみんな早川と椎名は仲が悪いって分かってる。学校のみんなだって、最近は親に教わったのか知らないけど俺たちの家が喧嘩してるのを理解してきてる。どこにも二人で話せる場所なんてないんだよ」
「あるよ。私たちは今だって二人で話せてる。こういう二人きりのときだけでいいから、本音でお話ししようよ」
「でも、もし誰かに見つかったら? 二人きりで一緒にいたなんて、見つかったら言い訳できないよ」
俺の言葉に結衣は少し考え込んで、最も合理的な答えを提案してくれる。
「なら、本屋さんにしようよ。勉強のために必要だ、一緒にいるのは相手がどかないのが悪い。特にテスト前とかなら、そういう言い訳も通るんじゃないかな?」
俺は少し吟味してから納得して頷いた。
数日が経ち、初めて本屋に行った日。
やっと本音で話せるねと結衣が笑った。
「私、初めて会ったあの日から、隼人くんのこと大好きだよ」
「……俺も、結衣のこと好きだよ」
そうして俺たちの奇妙な交流は始まった。
「ふわぁぁ」
昨日は久しぶりによく眠れた。
何か長い夢を見ていたような気もするが、内容は全く覚えていなかった。結衣と本屋で会った日だからといってあんまり性的な夢じゃないといいんだけど。夢で興奮されても結衣だって困るだろう。
だからほら、早く興奮を
適当に教科書を読んで眠気を冷ましてから制服に着替え、俺は鞄を持って部屋を出た。父も母も仕事に行っているので、家政婦さんが作ってくれた料理を一人で食べて家を出る。
いつも通りの通学路。適度に車が行き交っていて人もそれなりに多い。少し先に結衣の姿が見えたが、もちろん話しかけたりはしない。
この町の活発さに貢献してるのが俺と結衣の両親だったりするのかな。具体的なことは何もわからないけど、大手企業ならまちづくりにも影響を与えていることだろう。
「上がいがみ合ってるから不良も増えてきてるんだろうな」
最近は朝の通学路ですら不良にあたりそうな人たちを多く見かけるようになってきた。この調子で増え続けていくようなら、結衣にはどうか車通学を考えて欲しいところだ。
「あの、すみません。やめてください」
結衣の声だった。
見れば、交差点の信号待ちで両サイド、同じ服を着た大男に挟まれている。大男たちの手は明らかに結衣の腰や腕に触れていた。
「白昼堂々よくも……」
周りの人間が止めてくれればいいのだが、不良に声をかける人間はいなかったので俺は足を早めた。目の前の悪事を止めるためなら多少は言い訳も効くだろう。
一歩。
二歩。
どんどん足を早めていく。
そんな時だった。
「やめてくださいっ!」
スカートの下に伸びた手から逃れるように、結衣が身を捩らせた。
「この女!」
そう言った男が結衣のスカートを掴み、結衣の体がわずかに引っ張られた後、摩擦が足りずに男の手が外れる。
「きゃ────」
声もほとんど出せない状態で結衣が道路に向かってよろける。
そんなこと想像できるはずもなく車が迫り。
「結衣ッ!」
反射的に全力で駆け出していた俺は、結衣と入れ替わるようにして彼女を車通りのない道路中央へと突き飛ばした。
「いやああああああああああッ!!」
そう誰かが叫んだ気がした。
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