追想丸薬

梅星 如雨露

初夏


 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 ――読み人知らず『古今和歌集・夏・一三九』


『ルーブル美術館展』なる催しの見学に上野、国立西洋美術館まで足を運ぶ。異例の動員数を記録しているとは聞いていたが、あまりの行列に面食らいすぐに入館するのを諦めた。西洋の美に縋ればあるいは? そんな思惑は私自身の意志の弱さの前では意味がなかったようだ。ならばと気持ちを切り替えて、不忍池の蓮でも眺めて帰ろうと地図も見ずに赴くまま歩いたのがいけなかった。

 知らないことは幸いかな。あえて、知ろうとする愚行を許さない。

 ふと、死んだ妻の声が耳を過った気がして後ろを振り返ると空気が一変する。

 これは、迷わされたな……。

 自覚したときにはすでに遅く、どういうわけだか見ず知らずの喧騒の中に迷い込んでいた。くすんだ衣服に垢塗れの顔面は浅黒い群衆。強烈なアルコール臭は目に滲み、ヤニに塗れた空気が鼻を痺れさす。炊き出しのごった煮からは瘴気とも呼べる湯気が立ち上り辺りを――風景そのものを石灰色の靄に包み込む。

 されど、屑と埃で視界が悪いというのにこの場の活気と言ったら――人々は生命に溢れていた。

 上野の闇市。認識できる露店に屋台、バラックといった廃墟然とした町並みは現実離れしている。

「この世の『けいおす』さあ! 合法から非合法まで何でも揃うのはここだけだ!」

 酒に焼けた喉でがなり散らす様は殺伐した空気を実感させるに十分だった。

 まるで過去の記憶を見ているような郷愁すら覚える。

 全体を俯瞰することはおよそ不可能で、曖昧さの中でのみ存在する市場の風景は余りに幽玄としていた。すれ違う人々の表情は等しくのっぺら坊だ。ベニヤ板と腐りかけた木材で骨組みされたバラックというのも妙に胡散臭い。

 そこで吸い込まれるように中に入った屋台も、出入り口に黴た筵を垂らした粗末な作りだった。

 つん、と鼻を刺す薬品臭。今も昔もこの臭いだけは好きになれない。それは妻の死に態を連想させるからだろう。

 そこが薬屋であることはよく解った。夢遊病者のような心境で迷い込んだこの場所、闇市。ならばと、この世ならざる期待に武者震いするのも当然か。

 私の口から信じられない言葉がまろび出る。

「死者に会う薬はあるか?」

 言った自分が信じられず勝手に驚いてしまう。

 火鉢に手をかざしている主人が曲がった背を伸ばしてこちらを伺う。むしろ、睨めつけると言った方がいいような濁った白眼にどういう客か問われているようだ。

「……ある」

 主人の落ち窪んだ眼窩に見据えられ、やや後退る。怯んだ様子を見せては舐められる。あえて、胡散臭さを表し、店内ぐるりに視線をやってから向き直る。

『非時香菓』と筆書きされた木箱を差し出してくる。正露丸大の丸薬が三つ、綿に包まれている。いや、蚕の繭か……ガガイモの実を切り開いた様子で丸薬は白い絹に包まれているのだろう。微かに匂う香りは蜜柑に似ている。

「ひ、とき、こう、か……」

「読み方なんてわかんないよ。そんなこと重要じゃねえよな?」

 すでにこの男との間で取引が始まっている。金。現金にしたら数万ならいま払える。しかし、どう考えてもそれはよくない。

 私は内心の焦りを必死に隠そうとしていた。

「幾らなんだ?」

「十万円、といいたいところだが、これは巡り合わせだ。眉唾をつかまされたつもりはないが、あんた普通じゃないね。都合が良過ぎる」

「それはどうでしょうか。しかし、そうか……十万(それは闇市のレートでいうと幾らぐらいか? 少し考えても予想できなかった)」

「それとそれ、あとそいつを置いていきな」

 瞬時にこちらの素性を把握するのも、商いに精通した者特有の資質なのだろう。即断即決の物々交換というのもそれらしく感じる。流石というべきか、物を見る目は確かなようで、私の眼鏡と腕時計、それからワイドストライプのネクタイを指定してきた。正直、このネクタイを手放すのは惜しかった。忘れ形見というと情けないが、妻からの贈り物という点では私の中で一番の価値を持っているものだったからだ。

 しかし、迷う必要はない。私は言われた通りの物を差し出す。手は震えていたし、汗もひどい。この感覚を臭いでばれやしないか、そんな風にも恐れていた。

 それも杞憂で済んだ。

 主人が満足そうにそれらを受け取ると、木箱を私の方に差し出す。節くれた手の中に過酷な現実に向き合ってきた年月を見ることができた。

 その後、男は言った。

「こいつらもうあんたには必要ないだろうからな」

 それがどういう意味なのかを訊くことはできなかった。

 子供たちが笑いながら走り去っていく。釣られて振り返ると青々とした池が広がり、さざ波を打っていた。闇市の殺気立った喧騒は嘘のように消え失せていた。

 目の前には少し時期の早い蓮が一輪大きく花開いていた。


 黄泉路は暗く、ゆらゆら、と仄めく青い炎が頼りである。それは不知火のようでありながら、人を惑わすような脅威はない。淡い灯りはゆく道を暗示する。人魂とて例外なく還るべき道を知っており、またそれを私自身にも悟らせる。どれもこれも行き所のない亡霊とは質の違う、聖性すらを帯びた光だ。

 空洞の中を流れ過ぎていく風を感じて、赴くまま進む。それは偽りではなく生の質感を伴う行脚だろう。

 ここでは目もはっきりと見える。時間の流れは関係ない。何者かに束縛される息苦しさからも解放されている。

 現実よりも明瞭な意識が、夢であることを自覚しながら手に触れる岩肌の湿り気に安堵する。

 淀んだ清涼感というのは直観に反するが、粘つく空気が皮膚に纏わりつく感覚すら心地いい。

 生と死の狭間を。

 実感が伴ってくると、一歩足を進めるに期待は膨らんでいった。

 微妙な傾斜を感じ始めるころには小高い丘のようなところを登っているのだと知る。実際それが正しい感覚なのかははっきりしない。

 微かに甘く、饐えた臭いが漂ってくる。依然として辺りには薄暗闇が下りている。泥濘に足を突っ込んだようで、背筋に冷気が這い上がってくる。どうやら、浅い水の中に私はいるようだった。

 すると、青い炎の姿に実像が伴ってくる。揺れる形は朧気に。だがそれは、灯りであっても熱はない。イメージが移ろった、といった方が、この世界には相応しいように思える。

 一面に杜若(かきつばた)の群青色が目に映えた。杜若といってもそうであるように見えるだけであり、この黄泉路の中でそれが花であるかは定かではない。

 あまり、見慣れない杜若という花には淫靡なイメージが付き纏う。それが女性性的であり、もちろん、花全般にいえることだが、これには特に生殖本能を刺激する色香を誘うものがある。

 甘い匂いはその為か。あるいは、

 ずるずる、と泥を引きずりながら進んでくる影があった。こちらに向かってきているようで身構える。遠目にも解かる長襦袢は所々腐食しているのか青黴のような痛みが目立つ。それは私ほど目が良くないらしく、手で辺りを探るように這ってくる。

 俄かに恐ろしくなってくるものの自然と足がそれとの距離を縮めていく。甘く饐えた臭いは尚強く、手にも触れそうな層を作って鼻に纏わりつく。

 根源的に忌避する類の臭い。花の芳香とは違う、ねっとりと分泌される唾液に似た粘り気を帯びている。不快感に息を呑む。

 束になって抜け落ちた髪、頭蓋も露わになって揺れる頭(かしら)。お、お、とそれは私のすぐ目の前まで迫っていた。腐った身体は膨張し今にも破裂しそうで。黒く潰れた眼窩に魅せられて。脚も覚束ない。青く淫らな花弁に黒ずんだ体液が飛散した。汚された花はより厭らしさを増す。それは泥の中にうずくまる。泥濘に足を取られたのだろうか、変な方向に折れ曲がった脚の付け根から骨が付き出している。

 立ち上る悪臭に嘔吐き、胃酸が逆流する。

 見るのも悍ましい、原型をかろうじてとどめている姿は九相図などで見ることのできる腐乱死体だった。しかし、その腐り落ちた肉の中にはまだ何者かの意思が宿っている。それが誰であるのか?

 次の瞬間、私はそれに妻の面影が重なるのが見えた。考えるより早く動いていた。腕を掴んで泥水の中から引きずり出そうとしたのだ。だが、私の手に握られていたのは引き千切れた青い腕。血肉が蜂蜜のように顔面を濡らした。そこだけが溶岩で熔かされたかのような熱に侵される。悲鳴を上げた私に向かってそれは残っている方の腕を伸ばす。

 ああ、と頬に涙が伝った。それが熱による激痛の為なのか、ようやく再会できた喜びによるものなのかは判然としなかった。

 その薬指には見間違えようのない光が見えた。台座からダイヤの取れた指輪を。どういうわけだか彼女は一向に修理しようとはしなかったそれだとすぐに解った。

 それを認めた私の意識がぼんやりと解けていく。暗い世界を白い霞が覆い尽くしていった。急激な眠気に苛まれて、引きずられるようにして黄泉路の風景が消えていった。妙な気怠さだけが実感としてこの身に残っていた。


 その後、私は二つ目の丸薬を呑むまでに二月ほど時間を要した。一つには尋常ではない体の不調があった。あの晩、私は目覚めるなりトイレに駆け込み、胃の内容物をすべて吐き出した。それだけでは足りず、体内の毒素を総て吐き出すように胃液なのかどうかも解らなくなるまで体液を絞り尽くした。憔悴しきった後には身に覚えのない高熱に侵され、一週間ほど死にかけた。熱が引いた後ですら脳が委縮したような茫漠とした状態が続き、それが良くなる頃にはすでに一か月が過ぎていた。

 それからは、葛藤する毎日が待っていた。もう一度丸薬を呑むか呑まずか。最後に見たあれが、たとえ妻であったとしてそれでどうなるのか? ただ腐り果てた彼女の姿を見るのは苦しい。しかし、それでも断ち切れない未練が鬱々と日常を侵食し、考えあぐねた末に二か月が経過していた。

 さまざまな苦しみはだいぶ昇華され、今では開き直ってすらいた。何かに迷うほどの未練などこの世にはありはしない。失った心の隙間を埋めるもの。ただ純粋にそれだけを求めて。私はふたたびこの丸薬を口に入れた。


 打って変わって幽冥の空気に含まれる冷気に心安らぐ。茹だるような熱に侵された現世にはない郷愁が、実のところ心地いい。この身は半分、常世に触れている。直観も悟性も理性も超えた超越的な瞬間が意識を明澄としたものに塗り替えていくようだ。

 以前より明るさを感じる。せせらぐ川の畔(ほとり)に群生する青い花。菖蒲(しょうぶ)の色合いは爽やかな青。それが辺り一面を純粋な清涼感によって視界を明るくしているのだ。

 甘さの中に、爛熟した汗の香りが混じり合う。

 腕を伸ばせばそこには妻の青ざめた顔が。私は当たり前のように彼女を抱きとめていた。

 肺を患ってから、徐々に衰弱していく妻の姿はまだ記憶に新しい。そんなやつれた姿を見ないで欲しいと、彼女はよく面会を断った。

 あの病的に漂白された個室の中、孤独に耐える、そんな妻の憂えた首筋が嘆かわしい。

 いま、その首筋は愛おしくも妖艶な色香を発散している。喰らいつくように鼻を埋めた。鼻孔を直接刺激する甘い香気に陶然とし、あらゆるすべてがどうでもいい気分に浸っていく。

 私を駄目にする彼女。いっその事、自分も命を断てばすぐにでも。

「それだけはやめてね」

 青ざめた顔の中に心配げな色を見る。どんなにやつれて見る影もないと彼女が言おうと、その眉、瞳の輪郭、鼻筋から、やや痩せた唇まで。どれも美しいとしか思えない。

「どうして?」

 喘息を思わせる息遣いの中から妻の優しさが伝わってくる。

「死は永遠の別れではないけど、自ら命を断つ行為とは交わらないから」

 まっとうに生き、まっとうに死ぬ。その後にあるのがこの世界の果て。

「きみがいうのだから、正しいんだろうね」

 鼻息も荒く、首筋を舐め上げていく。這う舌の感覚に喘ぐその声はほんの少しだけ艶を増している。耐え難いほどの、飢えは人を堕落させる。

 堕ちる処まで堕ちよう。

 丸薬はあと一つ、残っている。

 絡み合う舌と舌の粘着質な水音が、川の流れに共鳴して、束の間、時を忘れる。

 感情に波打つ菖蒲のような花々も、微かに汗ばみ官能的な匂いをまき散らしていた。


 薔薇を散らした藍染の小袖に煙管を燻らせれば艶然とした昔日の彼女が戻ってきたようだ。纏め上げた髪によって際立つ首筋は彼女がもつ特有の美というものを収斂させ、いとも容易く私を虜にする。

 暮れなずむ夏祭りで出会ったその瞬間を幻視させ、幾らか私自身も若返る。芳しい香り漂う屋台の片隅で夜風に揺れるあやめの青が、紺青の空に溶けて調和する。地上と空の境目が限りなく零に近付いている。

 流れ消える紫の煙りの中から肉感に熟した唇が覗けばそこには挑発的な笑みが浮かんでいる。

「これで三回目よあなた」

 三とは尊い数字だろうか。多を現す、そんな記号か。

 煙草のにおいは嫌いではない。いつも彼女の周りには多種の匂いが混ざり合っている。そこに下品な交わりは皆無で、それぞれが調和し引き立て合っている。

「あなたの口から夏みかんの香りがするわ……」

 彼女は僅かに顔を歪めてみせる。

 おそらく、この逢瀬は多すぎても少なすぎても駄目なのだろう。

「あなたには選択肢があるわ。待つか、待たぬか。決めるのはあなた」

 思う存分貪るのはそれから。私はまだこちら側に入っていない。

 妻は唇を噛み、血が糸のように顎を伝っていく。それが項まで流れ落ち、一筋の赤が劣情を誘う。

 彼女は無花果(いちじく)の実を一口齧り、そこに自らの血を含ませていく。

 差し出された血の滴る無花果の実を。

 肉と肉の交わりより濃密な感触を舌の上で弄ぶ。

 この黄泉戸喫(よもつへぐい)という通過儀礼を通じて私はついに妻と共になるのだ。

 鉄と甘味を舌で転がし、柔い臙脂の実を噛み潰す。直後、私の口から無花果が吐き出される。続けて、胃液を吐く。全身全霊でこれを口にすることを拒絶していた。

「そう、やっぱり……」

 妻の憐れむような寂しげな眼差しを受けて、私の身が凍る。

 そんなはずはない、そんなはずはないのに。どうやっても無花果は喉を通ろうとはしなかった。

 なぜ……、と呻く。その答えを彼女は知っているようだった。

 気付けば黄泉路は黒々と。妻の声だけが微かに届くのみとなっていた。くたびれ萎れたあやめが終わりの瞬間を予兆する。

「こちらに渡る方法は幾らかあれど、あなたはあの霊薬に頼った……。どうか忘れないで。私は必ずここにいる。だけど、あなたの記憶から私の顔が消えたとき、それは永遠になる。どうか、どうか忘れずに」

 強く吹き付ける風に仮初の肉体から精神が弾き飛ばされる。強烈な求心力が私を現世に連れ戻していく。


 ああ、忘れない。忘れない。幾歳幾万の時を経ても、きみのことを忘れないと誓う。

 この身が一時的にとはいえ、常世に渡ることができたのだから。いずれ、悠久の時を経た現世が常世と結ばれることを信じて……。

 どれほどの年月過ぎようと、朽ちることのない肉体と共に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

追想丸薬 梅星 如雨露 @kyo-ka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ