天塔の冒険者

あやつき

第0話

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「はぁ」


 十二月三十一日の深夜、二十八時。

 四時じゃない。二十八時だ。ここ重要。

 つまり、年内。今年はまだ終わってない。

 一月一日は全社完全休と謳っている当社におかれましては? 本社に人が残っているわけありませんのでー。退勤の打刻? もちろんとっくに押してますよ、やだなー。当たり前じゃないですかー。ええ、わかってます。その勤務分は別の日に働いた事にして相殺していいんですよね? ハッ! そんな余裕のあるシフト、この人件費予算でどうやって組めっていうんじゃボケがあ! ってところまで含めてぜーんぶわかってますよ。


「くたばれ、資本主義社会め」


 おっと愚痴が出てしまった。


 連続勤務二十時間を過ぎたところでパソコンから顔を上げ、グッと体を伸ばした。

 真っ暗な部屋の中、ディスプレイの明かりがほのかに照らす僕のデスク周りは、なんというか悲惨だ。

 栄養ドリンクの空き瓶と、ブラックコーヒーの空き缶と、エナジードリンクの空き缶。

 やばいわあ。確実に寿命を縮めるコンボだわ。

 なんか、こめかみのあたりがズキズキするし、用量は正しくってマジなんだなあ。


 ギュッと目を瞑って痛みをやり過ごし、視線を手元に移す。

 プリントアウトされた資料の山。


「ぁぁ……」


 さっきより細いため息が漏れる。

 四時間かけて完成した資料。

 これをまとめて整理して、新年初日の会議室にセットすれば勤務完了だ。


「多いわ……」


 退勤時間直前に申しつけられた資料作成。

 なんでも年末のセールの結果がかなり悪かったらしく、会長(泥酔)がお怒りになられたのだとか。

 慌てた社長と役員は原因究明と対策を部長に命じ、部長は課長に申し送り、課長は平社員の僕に丸投げして、と。

 見事な社会の縮図がそこにはあった。


「あーあーあー」


 他にも社員がいる中、なんで僕なんだ、とは思わない。

 他の同僚には家族や家庭があったり、予定があった。

 僕にはなかった。

 三十過ぎても独身で恋人もなく、特に親しい友人もなく、親兄弟とも疎遠。おまけにこだわるほどの趣味もなし。

 そりゃあ、僕がやりますと手を上げるしかないだろ。空気的に。

 ……むなしい。

 あー。やめやめ。落ち込むだけだ。


「後は家でやろう」


 缶ビール飲んで寝て起きたらテレビの正月特番をBGMにパソコンを叩こう。

 社外秘の情報が関わるから会社でやるしかなかったけど、残りは自宅に持ち帰って終わらせればいい。

 幸い、アシタはお休みだ。

 うん。マイナス二時出勤みたいな概念はさすがにない。

 ……ないよな?


 ホチキスで資料をバチバチと留めていく。

 とってもハイな気分になって鼻歌が自然と漏れ始めた。

 あんなこといいなあ、できたらいいなあと心の底から共感できる名曲だった。


 小さい頃はあったな。

 スポーツ選手になるとか、学者になるとか、好きなものに囲まれて暮らすとか。

 いつか誰かと結婚して、子供ができて、歳を取っていくんだとか。

 夢とも呼べない程度の将来像。


「掠ってもないわ」


 独身、無趣味、社畜。

 なにやってんだか。

 いや、違うか。

 何もやってないからこうなのか。

 恋人を作ろうとしなかったし、興味を持とうともしなかったし、言われたことを言われたままにしていただけ。


 だから、こうなる。

 深夜を通り越して早朝の会社で、一人っきりの残業で過ごす年末。

 そして――。


「あれ?」


 ガクンと腕が落ちる。

 ばらばらと紙が落ちて、床に広がって、手から滑りぬけたホッチキスが固い音を立てる。

 グルグル回る視界。

 何か、やばい。

 やばいとわかっているのに。

 どうにかしようという考えが浮かばない。

 それが気持ち悪かった。


「―――」


 声を出したつもりだけど、自分の声も聞こえない。

 おかしいのは喉か、耳か。


 ぐらりと大きく揺れて、机に前のめりに倒れた。

 並んでいた空き缶と空き瓶が落ちたけど、その音もしない。


 心臓の鼓動だけが感じられる。

 それも妙に早くて、マラソンを走った後みたいなのに、手足の先からは冷たい感覚が上がってくる。

 なんとなく、この感覚が首から上に来たら終わりな予感がした。

 どうにかしないといけないのに、どうにもできなくて、どうにかしようと思えなくて。

 チカチカと点滅する景色が滲んでいく。


 ああ。

 僕は泣いているのか?

 なんで?

 痛い?

 寒い?

 辛い?

 なんでだ?


 なんで、なんで、なんで?


 なんで、僕は――。



 何かをやろうとしなかったんだろう?



 何でも良かっただろ。

 恋愛でも、運動でも、趣味でも、なんでも。

 本気で何かにのめり込もうってしなかった。

 運命的な何かに出会えなかったから?

 そんなのあるものか。

 いや、あったとしても気づけなかっただけじゃないのか?

 本当はわかっているだろ。

 本気になるなんてダサいとか、失敗したらカッコ悪いとか、つまらないプライドにこだわって、空っぽなのに気付かないふりをしていたんだ。


 ただ生まれたから、ただ生きただけ。


 そんなの、そんなの、あまりに虚しすぎるじゃないか。

 こんな最後の最後かもしれない時に、まともな後悔すらないなんて!


 もしも、もしも、次があるなら。

 次こそは、何かに、本気になりたい。

 こんな、惨めな終わりは嫌だ。


「―――」


 声にならない声は冷たい空気の中に消えていき、僕の生涯は終わりを迎えたのだった。

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