承前・四
明治三年当時、日本には三つの海軍軍人養成機関があった。
・旧朝廷軍海軍が下士官教育の拠点として設立した防府海軍伝習所
・旧幕府海軍の石川島海軍操練所
・戊辰戦争時に占領された長崎伝習所を接収、海援隊が再建した長崎海兵学寮
このうち、再建に着手したもののすぐに頓挫した長崎海兵学寮以外の二つは、戊辰戦争の停戦後も細々とではあったが教育を続けていた。
しかし、新生海軍が成立したことで教育の統合が不可欠となったこともあり、これら二施設の合流が目指されることとなる。
当然ながら体系的な教育体制を備えていた幕府海軍・石川島海軍操練所がその中核になることがほぼほぼ確定していたのだが、新政府内部ではそのことへの反発も強かった。
朝廷軍海軍、薩長の海軍は戊辰戦争において幕府海軍に対抗することを最優先に整備されていたため、統一の士官教育機関を持っていなかった。
そもそもの朝廷軍が倒幕という目的のために一時的に連合軍を編成しただけの雄藩の集合体にすぎなかったから、統一した戦争指導機関もないし当然の話である。
倒幕連合軍である朝廷軍に参加しているそれぞれの藩で独自に士官教育を施し、それによって運用されている軍艦が寄り集まって臨時の艦隊を編成している、それが朝廷軍海軍の実態であった。それでも由利島沖海戦の頃にはそれぞれの艦長の個人的な繋がりによって統一した艦隊運動らしきものを確立していたことが、新政府内部、とくに朝廷軍出身の要人の強硬な要求に繋がっていた。
「教育の統一は不要」
彼らはそう主張していた。
再編中の、雄藩を中核として整備される地方政府(この新自治体制は道制と呼ばれる予定だった)が独自の教育機関を用いて陸海軍人を養成し、これを中央政府に供出すれば良い、という言い分である。
いわく、由利島沖海戦での「寂地丸」「開聞」の奮戦がその証明だという。
下士官教育では旧幕軍に一日の長があったとはいえ、それでも士官の質には差がない。もともとが同じ長崎海軍伝習所で訓練したもの同士であるし、そこから発展した幕府と各雄藩との教育の間には差がないはずだ、と彼らは言った。
さらに下士官養成所として防府海軍伝習所もすでに稼働している。これを各地の地方政府に伝播させれば一貫教育は完成しこの点でも劣ることはない、とも声高に叫んでいた。
屁理屈の類である。
新生海軍の首脳が旧幕軍出身者によって占められることに対する抵抗であることは明らかであった。
戦後に残存した艦艇の数、将校兵員の規模からいっても朝廷軍海軍が幕府海軍に吸収される形になるのは不可避だったのだが、それでも雄藩・朝廷軍出身者は抵抗し続ける。
現状の勢力において幕府軍出身者が主力となるのは仕方ないにせよ、教育まで幕府主導とされて朝廷・雄藩の出身者が冷遇されるのは回避したいという思惑があからさまであった。
新政府内の政治の一環として、陸海軍内部の旧幕軍・朝廷軍の主導権争いが激化するのをよそに、戊辰内戦の停戦を成立させた幕府・朝廷双方の幹部はまったく別のことを考えていた。
海軍の教育機関統合問題を始めとする新政府内部での対立はすなわち、戊辰戦争の延長であった。
新生日本を指導するのは佐幕派(幕府)か、倒幕派(朝廷)か。
外敵の脅威から、それを実際の戦争という形で雌雄を決するというのは中断されたものの、火種はまだ燻り続けていていつ発火するかわからない。
(そのようなところで揉めている場合ではないのだ)
幕府でも重臣ではない立場から、あるいは朝廷・雄藩でも軽輩から戊辰戦争前後の激突を通じて地位を上昇させてきた人々は、それらの対立から距離をおいていた。
実質的に、戊辰戦争を本当に戦ってきた彼らは「国民国家の成立」こそが列強と伍するには不可欠という点で完全に一致していた。
幕府側の固執する旧体制も、朝廷側のこだわる復古体制も、どちらも大衆に「国民」の意識をひろく浸透させるだけの求心力をもたない。
戊辰戦争でサムライがその軍事的価値を大きく減じ、大衆からなる農兵らが戦争の帰趨を担ったことを思えば、大衆を味方につけないかぎりはいかなる体制であれ長くない。
その点でいまだに対立を続ける佐幕・倒幕、どちらも不正解というほかなかった。
「小田原に兵学寮を設置する」
新政府内部で佐幕・倒幕といった旧勢力間の小競り合いがやまぬ中に、唐突にその爆弾は投下された。
それは天意として、新政府に新設の宮内省より出された声明であった。
戊辰戦争(東西戦争)の停戦の最後の決め手となったのが「今上天皇のご聖慮」であったこともあり、佐幕・倒幕の両派がこの指示には逆らえない。
それ(玉)を巡っての勢力争いに疲弊したからこそ「天皇の意向」を理由に戦争をやめた両派が、今ここで「天皇の意向」を無視するわけにはいかない。
両派はともに天皇に翻意を促すべく工作を試みるが、宮内省を核とした側近連が天皇への直接の接触を阻止したために失敗に終わった。
両派はここで、戊辰戦争をやむなく停戦したときとおなじく
「天皇の意向」
を理由に矛を収め、統一教育機関の小田原設置を承認したのである。
種を明かせば、これは新政府指導層の中でも「国民国家の成立」を目論む一派による下剋上だった。
佐幕派の拠点の東京からも、倒幕派の牛耳る近畿からも遠く、旧勢力間の対立から隔離された立地に陸海軍統合の軍人養成機関を設置し、そのそれぞれの出身地・階層を超えて、日本そのものの国益を最優先とする国民意識を涵養する――。
その目的に合致したのが小田原であった。
距離は東京からは近いものの箱根を越えねばならないし、近畿からは充分に遠い。いっぽうで海路の利便は相応にあるから孤立するほどではない。
またたく間に小田原藩庁の置かれていた小田原城下を接収し、その広大な空間を陸海軍の統合教育機関として再編することが決まる。
その年のうちに防府海軍伝習所・石川島海軍操練所、さらに京都の兵学寮・越中島の銃隊調練所も閉鎖され、年明けの兵学寮開所に備えて施設・要員の移転の準備を進めることとなった。
明治三年。
いまだにそこで教育される「国民意識の涵養」がなんたるかはまったく定まっていない。
そこで教育される人材をどこから調達・募集すればよいのかも、まだ固まってはいない。
それでも、大日本帝国が統一軍人養成機関を設置する、おおきな一歩を記した年であった。
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