承前・二

 由利島沖海戦において薩長・(英米)連合艦隊が敗北したことで、戊辰戦争は幕府・朝廷双方が決め手を欠く千日手となり、なし崩しに停戦へと至った。

 関ヶ原の戦いにおいて双方は野戦部隊に壊滅的な被害を受けており、これを補充するための予備軍の動員において幕府軍・佐幕列藩同盟は劣っていた。

 幕府に比べれば豊富な予備軍をもっていた朝廷軍・倒幕雄藩連合が瀬戸内海の制海権を確保すれば動員力の差で押し切れるはずだったのだが、由利島沖海戦において敗北したことでその意図は挫かれ、大規模な予備軍の補充が不可能となった両軍は山陰道・中国道を巡る戦力を逐次投入する消耗戦へと突入する。

 両軍の首脳ともこの泥沼の戦いを好機と見て列強が蠢動するのは理解していたため、即時停戦を求めて講和交渉を開始するが、互いに決め手を欠くだけに折り合いがつかないままに時が過ぎていく。

 最終的に外交と国防を軸とする佐幕・倒幕両派の連合中央政府を設置し、現状の両派の勢力圏はおおむねそのまま自治権を維持するという形で新政府の形が決定する。   

 互いに(自派を中心とした)中央集権国家の確立を目指していたにもかかわらず、緩やかな連合体制でしか妥協できなかったのは不満が残るところであったが、これ以上の戦争の継続は国内外の情勢からいって不可能であった。


 内戦による消耗と、その消耗に見合うとは思えない、誰から見ても中途半端な新体制の成立。

 日本海軍は、その中途半端で脆弱な新政権に先駆けて誕生した。


 外交と国防を一任される中央政府を立ち上げることに同意した佐幕・倒幕両派であったが、その実質を与えるのにはかなり揉めた。

 お互いに「敗けたとは思っていない」から自軍の勢力維持に腐心していたし、それを中央政府に差し出すということも当初は激しく拒絶していた。

 国難・危急の際には中央政府がまとめてこれらの戦力を指揮すればいいだけで、普段から中央政府がまとまった兵備を維持する必要はない、というのが両派の言い分であった。

 これが大きく動くきっかけとなったのが幕府海軍のほぼ全ての兵力を中央政府に移譲するという決定である。

 幕府海軍の移譲については停戦合意後の新体制の構築が遅々として進まないのを憂慮した天皇の意向が強くはたらいたとも言われているが、真相は不明だった。

 よりもっともらしい理由としては、朝廷軍海軍を撃破して敵の居なくなった幕府海軍を幕府を筆頭とする佐幕列藩同盟が持て余して中央政府に投げ出した、というものがある。

 佐幕列藩同盟にとっては救国の英雄に他ならない「天陽丸」以下の艦隊も、海軍戦備というものにかかるカネを思えば、自分たちだけで維持し続けるのはとても困難である。かと言ってただ漫然と削減するのでは自分たちの発言力を低下させるだけである。ならば新政府に押し付けて恩を売っておいたほうがなんぼかマシであろう……という推測だが、こちらの方がより真実に近いと思われた。


 ともあれ、これによって負担の増大と同時に強力な兵備を獲得した新政府は、両派に対して強行な主張ができる立場となる。

 幕府海軍の強力な海上権の制圧能力と通商破壊能力とは、戊辰戦争において証明済みである。この強大な戦力が自分に向けられる怖れを思えば、佐幕・倒幕両派の強力な自治の主張が鳴りを潜めるのも当然であった。

 こうした流れにとどめを刺したのは双方の革新派、中央集権体制を指向していた勢力の結託による、両派の精鋭部隊の指揮権の中央政府への移管、いわゆる「御親兵」の設置だった。

「御親兵」は佐幕・倒幕両派が同数の兵力を拠出するごく小さな部隊であったが、洋式装備を完備した精鋭であり、数だけは立派な旧来の兵備とは一線を画する部隊であった。

 旧幕府海軍を主力とする「新海軍」と「御親兵」を得たことで、中央政府は物心両面でようやくのこと内実を整えることが出来た。

 

 ときに明治二年。

 内戦からの再建――維新はまだ端緒についたばかりである。

 




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