逃亡勇者 ~魔王戦から逃げた勇者は別の未来を探し求める~

しんた

第1話 最終戦

 重々しく、呼吸すら忘れてしまいそうなほど濃密な気配の中、眼前の闇と4人の勇敢な若者たちは対峙した。


 いや、闇というには不適切だ。

 若者たちが見つめる先にいるそれ・・が、表現としては正しくないことを物語る。


 至るところに亀裂が入り、床と思われる石畳はぼろぼろに朽ち果て、まるで凶悪な魔物に引き裂かれたかのようなタペストリーの残骸が壁に掛けられた様子から辛うじて謁見室だと判断できるその場所は、数百年の歳月を色濃く感じさせた。


 魔王城、玉座の間。

 謁見室と表現するにはおよそ似つかわしくない不気味な場所で、4人の英傑は巨悪の象徴と呼ばれた存在と向かい合う。


 例えるのならば、それは闇そのものだと答える者もいるかもしれない。

 おぞましく、禍々しい漆黒の魔力を全身に纏い、今にも周囲ごと消失させてしまいかねないかと思えるような気配すら醸し出す存在を前に、英傑たちはそれぞれ武器を構える。

 その中でひとりだけ、他の3名とは明らかに違う行動を取っている者がいた。


「……アレク、構えて」


 仲間のひとりが静かに、けれど明確な声色ではっきりと注意を促した。

 先端が後ろに折れ曲がる魔術師特有の黒い帽子を目深にかぶり、暗く深い夜空を連想させるローブを身に纏った低身長の女性は、体には似つかわしくないとても大きな杖を構えたまま、眼前の敵から視線をそらさず言葉にする。


「……あたしたちは、あたしたちの目的を遂行するだけ。

 それが何であろうと、そうしなければ大勢の人が悲しみの中を生きることになるのは、あの禍々しい魔力を肌で感じたアレクにも分かるでしょ?」


 少女のような女性の言葉に、青年は答えられずにいた。


 恐怖に起因した萎縮からか、それとも何か別の要因が影響しているのか。

 どちらにしても、なおも彼が取り続けている行動は褒められるものではない。


「……アレは捨て置けない。

 人を不幸にするモノだ」


 童顔で華奢、低身長なその体躯から12、3歳に見間違われかねない女性は、パーティーの最前列に呆然と立ち続ける青年へ言葉をかけた。


 彼女の言葉は間違いではない。

 今にも飛び掛かって来そうなほどの気配を放つ存在を前に呆然自失したと思われてもなんら不思議ではないが、それは一般的な者たちだけに限定しての話になる。


 ここにいる彼らは、そんな行動が赦される立場にいない。

 最前列に立つ青年は人々から勇者と呼ばれ、尊敬と期待を向けられる人類の希望なのだから。


 煮え切らない様子を見せる彼にしびれを切らしたのか。

 大剣を構えていた大柄な男性が、青年を一瞥することなく別の女性へ訊ねた。


「……グレイス、アレクの状態は?」

「問題ありません、正常のはずです。

 何らかの精神的な影響を受ける攻撃も感じられませんでした」


 上品な白を基調としたローブを着て、回復魔法を強化する美しい白銀の大杖を持つ女性は、背中までまっすぐ下した銀髪をさらりと風に揺らしながら答えた。

 曇りを感じさせない美しい銀の瞳はしっかりと敵を捉えるも、今も動けずにいる無反応の青年に何が起こったのかを内心では考え続けていた。


 冷静な判断を下せる普段の彼であれば、こんなことは起きるはずがない。

 しかし、何かしらの影響を魔王から受けたとも、現状では考えにくいと思えた。

 もしそうであったのなら、呪いや毒物の治療に関して世界でも随一と呼び声の高い彼女の理解が及ばない状況となるのだから、最悪としか思えない状態に彼は置かれていないと判断するのも当然と言えた。


「殴ってでも正気に戻すか?」

「待ってダグラス。

 ステラも杖を振りかぶらないで」


 殴ったところで意識を向けてもらえるのか分からないどころか、それが致命的な隙になりかねない以上、その選択は取らないほうがいいと彼女は判断した。

 たとえ要因が別にあるとしても探っていられるほどの余裕はなさそうだと考えた彼女は、透き通る声で青年へ言葉を投げかけた。


「アレク、話せますか?」

「……」


 無言のまま眼前にいる存在を見続ける彼に訊ねるも、答えは帰って来なかった。


 直後、石畳の軋む音が耳に届き、続けておぞましい気配がより攻撃的な動きを見せ始める。

 床から壁へ向け雷のような形の亀裂が鋭く入り、高く造られた天井へと向かう。

 ぱらぱらと小さな石の欠片と埃が落ちてくるのを感じるが、そんなことに注意を向ける余裕すら彼らにはなくなっていた。


「力が増幅……したのか?」

「……正確なところは分からないけど、良くない状況。

 あの魔力量を暴発されたら、グレイスの防御魔法でも耐えられる保証はない」


 血の気を引かせながら、ステラは持っていた大杖を強く握りしめる。

 彼女が得意とする攻撃魔法を最大で叩き込んだとしても弾かれてしまいそうなほどの膨大な魔力量に、対峙しているモノが魔王であることを再認識させられた。


「……凄まじい力の奔流。

 人がどうこうできる領域を大きく逸脱してる」

「このままってわけにもいかないだろ。

 アレクが動けない以上、俺が斬り込む。

 グレイスは支援魔法を俺に、ステラは最大火力で魔法を放ってくれ。

 当たると同時に飛び出して側面から狙う」

「……ダメだ」


 覚悟を決めたダグラスの提案に女性たちが答えようと口を開く直前、これまで沈黙を貫き続けていた青年が小さく言葉にした。

 意識をアレクへと向けると同時に、彼は仲間たちを含む自分へ魔法をかける。

 月明りのような優しい光に全身が包まれた彼らは、魔王を眼前にしてその場から忽然と消えた。


 辺りに包まれたのは恐ろしいほどの静寂。

 今にも暴発しそうなほどの膨大な魔力は次第に落ち着きを見せ、魔王は何事もなかったかのように鈍く光る赤黒い瞳を閉じた。



 この日、勇者アレクシスは己が生涯で唯一、敵を前に戦いから逃げ出した。

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