婚約するのは正真正銘これが初めてです
楸こおる
本編
01
「数々の悪質な行為で私の愛しい人を苦しめたロザンナ、お前とは今この時を以て、婚約を解消する!」
声高らかに衆目の面前で十年ほど寄り添って来た婚約者を糾弾した王太子殿下に、キュカの視線の先に居る令嬢は冷静さを保っているものの、その顔は青白く、気を抜けば今にも倒れてしまいそう。
彼女は公爵令嬢で、王太子殿下の婚約者で、令嬢達にとっては手本にもなりそうな、非の打ちどころない貴族の娘。
艶やかな赤い巻き毛も、長い睫毛に縁取られた翠の瞳も、白くなめらかな肌も、凛とした佇まいも、言葉遣いから所作の一つひとつまで完璧、何もかもが綺麗で高貴な高嶺の花。ロザンナ嬢ほど立派な淑女はこの国に居ないだろうと、社交界でも評判の美しい人は、毅然と顔を上げて婚約者――だった王太子を見据えている。
キュカは騒ぎの中心人物達をもう一度見た。
いわれなき濡れ衣で糾弾されたロザンナ、真実の愛に目覚めたと宣う王太子のアレクサンダー、彼の腕の中でか弱く震える男爵令嬢リリアン、王太子のように彼女に魅了されたと噂される、宰相の息子、外交長官の息子、魔術師長の息子、騎士団長の息子。
(マティアス…)
その中の一人、騎士団長の次男マティアスは、伯爵令嬢キュカの幼馴染である。
元々親同士の仲が良く、その縁で幼い頃からマティアスとは姉弟のように共に過ごした。年齢も同じだし家格も伯爵家同士釣り合っているからと、正式な婚約はまだ結んでいないが、親の口約束で何となく婚約関係にあるようなないような、というあやふやな関係性。
王太子を筆頭に、宰相の息子も、外交長官の息子も、魔術師長の息子も、証拠らしい証拠もなしに、リリアンの証言のみでロザンナを悪と決め付ける。
けれど、その中の一人、マティアスだけは無言で居る。キュカには――キュカだけは、その理由が判っていた。
何も言わずに佇むマティアスを不思議に思ったのか、訝しげにアレクサンダーが「お前も何か言う事はないのか」とマティアスを振り向く。
「……では、一つだけ。アレク殿下に確認したい事があります」
「? 何だ」
「先ほど、ロザンナ嬢と婚約を解消すると仰っていましたが、そのお言葉に二言は」
「ある訳ないだろう! 私にはリリアンが居るんだ。大体、私はロザンナを好きだと思った事など、一度もないのだからな。いつも端然として、表情も崩さず、鉄のような心で、気の休まる時がない。息が詰まりそうで、ずっと窮屈だったんだ!」
(なんて酷い事を仰るの。たとえ恋心が芽生えなかったとしても、今まで長年寄り添うように関係を築いて来た婚約者を公衆の面前で辱めるなんて……)
リリアンに夢中になってからの王太子は見るに堪えない。尊敬すべき面も多々あっただけに、今のアレクサンダーにはただただガッカリする。
「では…。一言、ロザンナ嬢に告げたき事が御座います」
「あぁ。存分に言ってやれ。リリアンは随分と悲しい思いをしたのだからな」
「そ、そんな……、アレク様、私がアレク様と親しくなってしまったのが悪いのです。ロザンナ様が私を目障りに思うのは、当然の事で…」
「君の謙虚なところは好ましいと思うが、悪行には罰が必要なんだよ」
アレクサンダーとリリアンのやり取りを無視し、ス、と体躯に似合わず軽い身のこなしでマティアスは前に出る。
(…あぁ、とうとう言うのね。マティ、頑張って)
キュカは弟のような幼馴染の凛々しい横顔をハラハラ見つめ、胸の前で両手を組み、祈る心地で成功を願う。
短い銀髪に碧の瞳も美しい幼馴染は、ロザンナの前に恭しく跪いた。
「ロザンナ嬢」
「……ッ、……? はい…」
彼からも糾弾されるかと身構えていただろうロザンナは、何故か跪かれてしまい、困惑している。
「貴女が殿下の婚約者であった時から、俺はずっと貴女の事を恋い慕ってきました。……たった今婚約を解消なされた貴女は、現在特定の男性が居ない状態です。…その、俺より貴女に相応しい令息はきっとたくさん居ると承知していますが……どうか、俺の手を。取って頂けないでしょうか?」
「――――――――!?」
「えっ…?」
ロザンナは元より、キュカ以外の誰もが跪いて、はにかみながら唐突な求愛をしたマティアスに瞠目し、シンと静まり返った卒業式後の正門前は、数秒の静けさの後、怒涛の騒ぎとなった。
(…あぁ。良かった。マティ、ちゃんと言えたわね。偉いわ)
正式な婚約を結んでいないだけで、ほぼ婚約者同然だと思われていたキュカ本人だけが、マティアスの告白をハラハラ見守っていた為、取り敢えず無事に言えて良かった、とギャラリーの中で一人ホッと胸を撫で下ろす。
「ど、どういう事だマティアス! 貴様、ロザンナはリリアンを苛めていた女だぞ!?」
「そうだ! ロザンナ嬢は僕達の女神に酷い嫌がらせばかりしてきたんだぞ!? そんな彼女に求愛!? 一体どうしたんだマティアス!」
「リリへのロザンナ様の数々の悪質な行為は、君も私達と共に行動していた以上、知っているはずだ! なのに何故、そんな血迷った事を!? 君、どうかしてしまったんじゃないか?」
「嫌がらせと言っても、リリアン嬢が一人でそう喚いているだけでしょう。彼女以外の第三者による客観的な証言もなく、物的証拠は彼女自身が用立て出来るものばかり。確たる証拠もなく、このような人前でか弱い女性を男数人が冤罪を被せ糾弾する方が、よほどどうかしていると思いますが」
「なっ…! 貴様、リリアンが私に嘘を吐いていると!?」
「幼馴染のキュカが、彼女が自分で自分に嫌がらせしているように見える裏工作しているのを、何度か目撃しているので」
「なっ…!?」
「俺もキュカと一緒に、彼女がロザンナ嬢のペンを盗んで自分の持ち物に汚い言葉の落書きしたり、ノートを破いてその紙片をロザンナ嬢のポケットに忍ばせようとしたり、まぁ色々とこの目で見せてもらいました。――物的証拠と仰るなら、一応、映像記録の魔道具で一部始終撮影したので、そちらは既に父を通して、各々の部署を介し、陛下に提出してあります」
「「「「……!!」」」」
リリアンと取り巻きの青年達は、先ほどまでの勝利を確信した顔から一転、窮地に追いやられた顔になった。
マティアスの言に、場はまたもや騒然となる。
「そ、そんな、嘘よ! 嘘です! 私、そのような事は…信じてアレク様!」
「何故キュカが度々そういった場面を目撃しておきながらリリアン嬢には気取られなかったと申しますと、……キュカはその、ちょっと、存在感が…埋没、いえ、薄いので……」
(存在感が薄いのは私の取り柄みたいなものだから、そんな申し訳なさそうな顔で言わなくても良いのよ)
キュカはマティアスのフォロー下手っぷりに苦笑した。
青黒髪をポニーテールにした蒼い瞳の伯爵令嬢は、よく見れば可憐だし性格も決して暗くなく社交的ではあるのだが、少しばかり地味な為、時々存在感が薄い。
一方、ちゃちな小細工を暴露されたリリアンは動揺も露わに「嘘です、マティ様もキュカ様も私を陥れようとしてるんだわ!」と喚き、アレクサンダー達はリリアンを信じるべきか、映像という証拠を国王に提出したマティアスとキュカを信じれば良いのか、その場合自分達の立場はどうなるのかという点で、既に大きな過ちを犯してしまった事を今更自覚し、蒼白になっている。
「――王太子殿下。並びに、リリアン嬢とその取り巻きの子息達。国王陛下より、今すぐ登城するように、とのお言葉です。貴方方の周辺で何があったのか、既に陛下も王妃様も把握なさっておいでです。言い逃れなど出来ないものとお心得下さい」
「! そ、そんな…」
王太子を含む卒業式とはいえ、アレクサンダーの親である国王と王妃は内政に外交にと日々多忙である。式には参列出来ないが、乳母であった侯爵夫人と、教育係を務めていた王弟の公爵が代わりに参列していた。
アレクサンダーにとっては、両親の次に頭が上がらない二人とも言える。連行も辞さないというように、王弟と夫人の背後には、いずれマティアスも着用するだろう軍装に身を包んだ騎士達が十名ほど控えていた。
「暫く見ない内に大きくご立派になられたと思いきや、人前でか弱いご令嬢――それも幼少のみぎりから支えてくれた婚約者様を謂れなき冤罪で糾弾するなどと……私は悲しいですよ。馬車はこちらです、殿下」
「リリアン嬢と言ったか。ふむ、可憐な娘だが、裏を返せばそれだけにしか見えないな。夢中になるほどの何かを備えているようには見えないが」
蒼褪める彼らの腕をグイグイ引き摺っていく頼もしい保護者と騎士達を見送ると、もうその場は、まだ跪いたままのマティアスとロザンナを囲うギャラリーだけが残る。
「マティアス様もてっきり、リリアンさんがお好きなのかと思ってたわ…」
「ずっと殿下達と行動してたものな。まさかロザンナ様を恋い慕っていたとは…」
「でも、マティには幼馴染が居ただろう。先ほども名が挙がった、キュカとかいう…」
「キュカさんねぇ。悪い噂は聞かないわ。それどころか親切で良い人よ。明るくて優しいし。それなのに、時々存在を見失うのよね。どうしてかしら…」
周囲からはマティアスもリリアンの魅力に落ちた青年だと思われているが、実は違う。
マティアスはリリアンに落ちていない。リリアンと、彼女の虜になった彼らを見張る為に、行動を共にしていただけ。
自身への嫌がらせをロザンナの指示だと取り巻き達に涙目で訴えていたらしいリリアンだが、キュカはそれが狂言だと知っている。偶然だが、何度か目撃してしまったのだ。彼女がロザンナに罪を着せる為、裏工作している場面を。
一度くらいなら気のせいとか目の錯覚だと思うだろうが、四回も見てしまえば、流石にリリアンがロザンナをハメようとしている事に気付く。
キュカはすぐさまマティアスに相談した。マティアスの近辺にもちょろちょろとリリアンがうろつくようになっていたので、用心するに越した事はないと考えたのもある。
マティアスは騎士団長の次男なだけあって知名度は高い。本人も、武張った肉体と爽やかな笑顔にサッパリと気持ちの良い性格。男らしく頼れる逞しい雰囲気に、弟属性の可愛げも持ち合わせ、男女問わず友人が多い。
そんな彼が、ずっと高嶺の花であるロザンナを密かに想っている事を、キュカも知っていた。
だって、判り易いのだから気付くなと言う方が無理な話で。本人は上手く隠しているつもりのようだったし、周囲の人間も意外と気付いていなかったようだが、キュカはマティアスの幼馴染で、姉のような存在でもある。
「歳も同じですし、将来、マティアスとキュカを結婚させても良さそうですな~」といったノリで、幼馴染なのだが婚約者のような気もする、と言う微妙な関係性であったけれど、二人は親や周囲からどう思われているか把握した上で、ずっと仲の良い姉弟のような幼馴染で居続けた。
「え…あ…、私の事を…?」
鈴のような声は戸惑いに満ちている。当然だと思う。
婚約者だったアレクサンダーから記憶にない嫌がらせをしたとして断罪され、一方的に婚約破棄され、かと思えば王太子に横恋慕したリリアンの取り巻きだと思っていた騎士団長の息子から求愛されて。
常に泰然とした淑女であれと己に課しているようなロザンナであっても、怒涛の展開である事は間違いない。
「はい。…アレク殿下の婚約者でしたから。この想いはずっと胸に秘めていようと思っていました。…ですが、目の前で貴女が婚約破棄されて、チャンスだと思ってしまった。……貴女は今、とても傷付いておられるのに。どうしても今、言わなければ、と…」
「…で、ですが、マティアスさんには、キュカさんが、」
「キュカもずっと知ってますよ。それに、俺とキュカはあくまでも親同士が軽い気持ちで交わした口約束と言いますか…、そういう訳で、実のところ、この歳になっても未だに正式な婚約を結んでいないので、実情は幼馴染なだけなのです」
「!」
それを聞いたロザンナは、戸惑った顔で視線を泳がせる。ギャラリーの中に存在感の薄いキュカを意外と早く見付けた彼女と、必然的に目が合った。
キュカは「そうです、ただの幼馴染です」というように、笑顔で強く頷いてみせると、ロザンナはその新緑のような双眸を丸く見開き、次いで泣きそうに唇や眉を僅かに歪めた。
(どうか。応えてあげて下さい。ロザンナ様、マティは殿下と違って浮気なんてしないわ。良い子ですもの)
「…っわ、私、私で、宜しければ……是非」
「……!」
ずっと跪いていたマティアスは、頭上からの恥じらいを含んでか細い、けれど芯の通った声での返答を聞くや否や、バッと顔を上げ、ロザンナを見上げた。
「今のは…本当、ですか……」
「は、はい。…殿下に捨てられた女など、腫れ物のような存在です。きっと誰も貰ってくれないだろうと覚悟を決めたばかりでしたのに……」
「そんな事はありません。きっと貴女は引く手数多だ。だからいの一番に、貴女に求婚出来るチャンスが欲しかった。……たとえ貴女に選ばれなくても、貴女の心に少しは俺という存在を残せると…」
「そんな…」
裏表のない真っ直ぐな好意を向けられた事がないのか、ロザンナは普段の優雅さも霞むほど愛らしく照れているものの、その表情には羞恥だけではなく憂いも滲んでいる。――アレクサンダーに一方的に婚約破棄を告げられた事にではなく、キュカへの申し訳なさで。
口約束だとしても、一度は両家で婚約の話題が上がり、周囲からも幼馴染なだけではなく婚約者でもあると思われていたキュカとマティアス。
返答を急かされていた訳ではないけれど、あまりにも真摯に恋情を告げられて、早く応えたくなってしまった。彼と婚約していると周囲から思われていたキュカもこの場に居るという事実を、一瞬だけ忘れてしまった。
――パチパチパチパチ!
「マティ、やったわね! おめでとう! ロザンナ様、どうかマティとお幸せに!」
そんなロザンナの葛藤と後ろめたさを瞬時に察したから、キュカは真っ先に拍手した。曇りなき笑顔で二人を祝福し、「自分とマティアスは何もないですよ、二人の恋を心から応援しますよ」と己の全てで表現する。ロザンナの僅かな憂いや躊躇を吹っ飛ばしたくて。
「っあ…、キュカ、さん……」
完璧な令嬢と評判のロザンナが、アレクサンダーに婚約破棄を告げられた時でさえ表情を崩さなかったロザンナが、キュカの思いを汲み取って、泣き笑いのような顔をする。
いつもの優雅で何事にも動じない麗顔とは比較にならないけれど、そんな素の表情のロザンナもとても美しい。
「キュカ! 有難う、キュカ! 君が背中を押してくれたから、俺はロザンナ嬢に告白出来た! 大好きだ、俺の幼馴染、俺の姉。――俺は今、世界で一番幸せだ!!」
恋が叶ったマティアスときたら子供みたいで、晴れ晴れとした笑顔と真っ直ぐな言葉が、何よりも嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます