第30話 辛い感情を共有するということ

 昔の知り合いと遭遇し、知られたくない事実を俺に知られた那由多さん。

 全力で住宅街を縫うように走っている彼女の心境としてはそんなところだろう。

 那由多さんはオタクだったと、昔の知り合いの安藤は言った。

 そのことはどうしても俺に知られたくなくて、それを知られてしまった今、どうしたらいいかわからずパニックに陥っている。だから一旦俺から距離を置いて、考えを整理したいのだろう……。 

 だろうが———、


「待ってよ、那由多さん!」

「———ッ!」


 俺は彼女の手を掴み、引き留める。

 先に公園から駆け出し、最初こそ俺と那由多さんとの間にはかなりの距離があったが、陽子にフラれ、自分磨きに抜かりなくダイエットのために毎日十キロ走り込んでいた俺の脚力をもってすれば、そんな距離はものともせずに追い付いた。那由多さんも那由多さんでテニス部に入ろうと言うのだからそれなりに脚力には自信があるのだろうが、それでもこの半年間で鍛え抜かれた俺の脚力には敵わない。

 俺に腕を掴まれた那由多さんはこちらを向こうとせずに顔を伏せている。


「那由多さん、何も逃げることないだろ?」

「…………」


 那由多さんの手に少し力がこもり、振りほどこうとしているのがわかる。だが、俺は掴む手にぐっと力を込めて決して彼女を逃がすまいとする。


「気にしすぎだよ。別にオタクだったからってそんなに……」

「君にとっては何でもないことかもしれないけど! 私にとっては気になることなの!」


 那由多さんが声を張った。

 初めて、俺に対して怒りをぶつけてきた。


「もう……放っておいて!」


 ブンッと手を振って無理やり振り解こうとする那由多さんだが、俺は決してそれを許さない。

 手をがっちりと掴んで、決して放さない。はたから見ると、女の子を無理やりどこかに連れて行こうとしているように見えなくもないが、そんな体裁を気にして、彼女を一人にさせるわけにはいかなかった。


「———黒木君、お願いだから一人にしてよ! 今……気持ちや考えがぐちゃぐちゃで……君に顔を見せたくないの!」


 いつもとは全く違う言動の那由多さん。もしかしたらこっちの方が素で普段見せている優しい面は完全に作っていたのかもしれない。だったら、仮面を剥がされてしまった今、尚更この手を振り解きたいだろう。

 彼女の内心を考えると、ここで手を放してやるべきなのかもしれない。

 彼女のペースに合わせるべきなのかもしれない。

 だけど———、


「嫌だ」

「どうして⁉ 君には関係ないでしょう⁉ 私が昔、どうだったかなんて……君に絶対知られたくなかったのに!」

「知られたくなかった事実を俺に知られてこんなにも動揺しているのなら、関係あるんじゃないかなぁ……」


 那由多さんの心の中でも整理がついていないのだろう。若干滅茶苦茶になっている言動に「タハハ」と苦笑してしまう。


「放してよ……お願いだから、一人にさせてよ……」

「嫌だ。そういう———辛い時、一人になりたい時に本当に一人になっちゃダメだ。辛い気持ちを自分だけで抱え込んで、誰にも迷惑をかけずに気持ちを整理したくなるけど、それはやっちゃダメだ。そうすると嫌なことばかり思いついて、実際更に辛い感情が増すだけなんだ。辛い時は他の人に話して、自分が辛いことを知ってもらわないと、どんどん独りよがりの袋小路に入ってしまうんだ」


 俺がそうだった。

 俺は陽子にフラれたあと、誰にも話すことなく自分一人でその辛さを抱え込んで、独りよがりな人間になってしまった。

 その自覚はある。

 だから、そうなっちゃダメだと彼女に、どうしても知ってほしかった。

 身勝手な俺という人間が、俺みたいになっちゃダメだと、一方的に彼女に気持ちをぶつける。それもまた身勝手なのかもしれないが、ためらって何もできない人間にはなりたくはない。


「辛い気持ちも嬉しい気持ちも共有することって、すごく安心するから……話してみてよ。那由多さん……」

「笑わない? 私が間違ってたって否定しない?」

「笑わないし、否定しない。安心して、那由多さん」

「…………わかった」


 那由多さんはようやく、こちらを向いて、怯えたような目を俺に向ける。


「あのね———実は私は、今でもオタクなの」


 そう、切り出した。

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