快楽を綴じる書店~僕たちが高校を卒業できない理由~

神坂 理樹人

第1話 Thrill

 商店街から少し外れた場所にある本屋は、閉店前にあって客の入りはまばらだった。見上げるほど高い本棚にびっしりと詰まった商品エモノたちは怯えているようにさえ見える。


 マンガコーナーの隅をゆっくりと歩きながら、市川紗英いちかわさえは高揚感と恐怖心を紛らわせるように唇を舐めた。


 ついさっきまで受けていた学習塾の授業中もこの時間のことばかりを考えていた。今日は紗英がハマっているマンガの単行本の発売日だ。


 首元には緩く巻かれたマフラー。手が半分隠れるほどの大きく厚手のコート。足首まで届きそうな長い制服のスカートは、歩くたびに大きく揺れていた。


 口の大きなトートバッグにはウサギとクマの小さなぬいぐるみがついている。

 黒のウレタンマスクで鼻まで覆われた顔につけまつげとメイクで大きく変えた目。すれ違ったくらいでは誰も紗英と気付くことはない。


 目当てのタイトルを探しているようにキョロキョロと辺りを見回しながら、実際の視線は天井で首を振り続ける防犯カメラの姿を追っていた。


「あれはダミーね」


 自分の観察結果を確認するように小さくつぶやく。経験則から導き出された紗英の推測は当たっていた。


 店員は六十歳くらいの老年の男一人で、レジの前に座って雑誌を退屈そうに読んでいるだけだった。客の姿も雑誌コーナーに数人が立ち読みをしているだけ。


 今回は思ったよりもスリルがなさそうだ、と紗英はつまらなそうに蹴るように足をぶらつかせた。


 店員の死角に入る。さっきと同じように辺りを見回す。今度は客の視線の動きを追いかけている。


 自分が目立っていないことを確認すると、紗英は本棚前に平積みされた週刊少年マンガ誌に連載されている人気マンガの単行本を手にとった。ビニールでしっかり包装されたそれを丸飲みするようにトートバッグに放り込んだ。


 一瞬の出来事だった。それが自然という涼しい顔で紗英はさらに二冊の単行本をトートバッグに放り込むと、素知らぬ顔で雑誌コーナーに向かった。


 興味のないファッション雑誌をペラペラとめくって目を通すと、納得したように店を出る。


 店を出てゆっくりと通りを歩いていても、紗英の背中を追ってくる人影はなかった。


 紗英はゆっくりと後ろを振り返る。誰もいない夜の通りを見ると、絶頂するような達成感に全身を震わせた。


「ちょっろ。あんなんでよく潰れずに残ってるね、あの店」


 見えなくなった店に向かって暴言を放つ。誰もいない通りに紗英の声は白い息とともに消えていった。


 最初は十円の駄菓子だった。模試の成績が思うように上がらない苛立ちをぶつける先に困って盗みを働いた。誰にも知られず公園のトイレの影に隠れて食べた駄菓子は紗英が今までに食べたどんな食べ物よりもおいしかった。


 少しずつ金額が上がり、盗むものも大きくなった。勉学への熱意と同じくらいに防犯カメラの動きや店員の動きを考え、巧妙に自分の動きと正体を隠すようになった。


 今日の戦果はマンガが三冊。買えば二千円近くなるものがカバンの中に対価もなく入っている。紗英はその事実だけでまた全身に走る艶やかな衝撃に身を震わせながら家に向かった。

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