5-2
知らせを受けて滞在を切り上げ、急いで戻った頃には父は棺の中だった。
さらには、ヴァンホー商会はラトウィッジ海運との取引ごとまとめて他人の手に渡っていて、爵位すらも取り上げられていた。
リデル伯爵は急死。一人娘の不在については「隣国で行方知れず」などという、どこから出てきたのかも定かではない、曲解された、馬鹿げた噂が一人歩きをしていたせいで。
帝国は遠く、隣国とはいえどんなに急いでも片道半月はかかる。ヴィクトリアの元に知らせが届くまでに半月が、そしてヴィクトリア自身が戻るまでにさらに半月がかかった。
父が亡くなってひと月が経って、ようやく伯爵領に戻ったヴィクトリアを待っていたのは、全てを失くし、本邸を追い出された母。
実家である商家に身を寄せていた母は、周囲が心配するほど憔悴しきっていた。
娘を見て詫びながら泣き崩れる母を前にして、ヴィクトリア自身は涙を流すタイミングさえも失った。
「……うそつき」
話したいことが、たくさんあった。
相談したいことがたくさんあった。
大丈夫だよと言って笑って欲しかった。
もっと甘えていたかった。
その背中を追いかけていたかった。
まだ、もっとずっと一緒にいて欲しかった。
冷たい墓石にぶつけた言葉はらしくなくか細いもので、詰るその言葉の裏に隠した弱気を汲み取って抱き寄せてくれる父はもういない。
せめてもの慰めは、その死が比較的穏やかだったことぐらいだろうか。
医師の見立てでは、心臓の病による突然死だったのではないかということだった。夜眠り、朝になる頃には既に亡くなっていたらしい。同じベッドで休んでいた母が気付かないぐらい、文字通り眠るように逝ったのだという。
そして今は王都からは遠く、リデル伯爵領のどこまでも広がる草原と、青い海と、それらが描く稜線が望めるところ。その遠い空の下、手の届かない土の下に埋まっている。
本当は、王都の空の墓地に花を供えても、なんの慰めも得られはしない。
それでも、今日のこの日に、来ないではいられなかった。
「ヴィクトリア……」
ダンテがヴィクトリアの肩に手を伸ばす。触れるぎりぎりで、ヴィクトリアは顔を上げぎこちなく微笑んだ。
「なんて、少し弱気になってしまいました。続いている雨のせいでしょうか。気が塞いでしまうのは。それに、どうもあなたの前では気が緩んでしまいます」
「……お互い様だろう。俺も、昔からかっこ悪いところばかり見られてる」
三十年の前、社交界を賑わせた名門貴族の三兄弟がいた。華やかで位の高い侯爵家、その見目麗しいドッドソン家の三兄弟。
その三兄弟のうち、長兄はひと月前に亡くなったドッドソン侯爵で、次男は実家の事業であるマクミラン商会を継いだ上、王妹を妻に迎えたキャロル侯爵。
二人の気位の高い兄に冷笑されつつも独自の道を突き進んだ三男のリデル伯爵は、田舎の伯爵領を継いだ後、商家から妻を娶り一人娘と三人で自由気ままに暮らしていた。
あまりにも貴族らしくない、自由な思考の持ち主だったため、侯爵である兄二人にはまったく理解を得られず少しも反りが合わなかったが、リデル伯爵は子供にとっては格好の遊び相手だった。
気取らず、大らかで、ユーモアに溢れていたリデル伯爵を慕っていたのは一人娘のヴィクトリアだけでない。ダンテも、多分セオフィラスさえも。
特に実の父に冷遇されていたダンテを気遣ってだろう、ドッドソン家には今考えれば不自然なぐらい足繫く通っていたように思う。
「伯爵にも、君にも、ずっと世話になってきたんだ。助けになりたいと思ってる」
手向けられた花も、何もかも全てが、きっとただの義理ではない。これら全てが、父であるリデル伯爵が思うままに生きてきた証。
ダンテは結局、ヴィクトリアの肩も触れることはせず、濡れて白い頬に貼り付いた赤毛を払うだけにした。
「ヘンリーは? あいつがいたら君が一人でこんな風に雨に濡れてるなんてあり得ないだろ」
「ヘンリエッタです」
「悪い。ヘンリエッタは?」
「少し、用事をお願いしているのです。大丈夫。もうすぐ戻ります。必ず」
それは少しだけ、自分に言い聞かせてもいる。
大丈夫、ヘンリーは絶対に、どんな無茶をしてでも間に合うように戻ってくる。
無茶をして欲しいわけではないけれど、でも間に合って欲しい。無事で戻ってくるのと同じくらい、そう願っている。
こんなに長くヘンリーが傍にいなかったことなんてない。だから、少し不安に感じてしまうだけ。
ヘンリーは大丈夫。きっと、絶対に、大丈夫。
黒衣を纏い墓の前にいると、世界にたった一人で取り残されたような気分になる。この不安に似た気持ちは、そのせいに違いない。
「この後王宮へ行くんだろう。俺も一緒に行く」
ひとりでも平気です、と、本当はそう言いたかった。
言えないのは自分の弱さ。そして、ダンテのその言葉にほっとするヴィクトリアがいた。
「ありがとう、ダンテ」
これから掴み取るものを背負って立つまでの、今この時だけ。せめて、この黒衣を纏う間だけ。
後ろめたい気持ちが少しもないわけではないけど、その好意を利用する。
すんなりと受け入れたヴィクトリアに、ダンテが拍子抜けしたような表情を見せた。
「…………あー、その、ヴィクトリア」
言い淀みながらも、意を決したようにダンテが口を開く。
「その……つまりだな、どうにもならなくなったら、俺が君ひとりぐらいならどうとでも、その……面倒を見ることはできるし……」
「何ひとりでぶつぶつ言ってるんです? 置いていきますよ」
馬車へ向かって歩き出していたヴィクトリアは、黒いドレスを翻して振り返った。
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