11. じゃあ、なれるかもしれないじゃないですか
泣くと、鼻水もたくさん出ます。
それで思わず、手鼻をかんじゃったんです。かんでから、ここが家じゃなかったのを思い出しました。
手洗い場もないですし、手拭きもありません。チェムさんの上着で拭く……のは、たぶんまずいです。困りました。上着の暗闇から顔を出したら、チェムさんが掌をあたしに向けていました。
待て、ってことです。そのまま、ハンカチを手にチェムさんが机を回り込んできます。それで、膝をついて、鼻水まみれのあたしの掌をハンカチで
ハンカチは思ったより大きくてしっかりしていて、布ごしに感じるチェムさんの手は固くて骨っぽくて、思ったより細かったです。
拭き終わったハンカチを畳んで、チェムさんが言いました。
「今日はここまでにしましょう」
帰り道。
あたしはハンカチを手にして歩きます。洗って返しますと言ったら「じゃあお願いするわ」と渡されました。
ケトさんが一緒です。夜道なんかへっちゃらなんですが、そうしろと言われました。魔法ではなく、歩いて帰ります。
「協会の寮には通り道が通じぬ。あそこは見られているからな」
って言われましたが、なんのことだかさっぱりです。
ガス灯がたたたたたっと並ぶ大通り。シュダパヒ
すれ違う人はみんなびっくりしています。ケトさんがでっかいから。ケトさんの背中、あたしの腰ぐらいまであるんですよ。
「縄でつないどけ危ないな」ってあたしに怒るおじさんもいました。
「無礼であるぞ人間」ってケトさんが返したら、とても驚いていました。
男の人も、女の人も、お金をもってそうな人も、もってなさそうな人も、いろんな人が通りにいます。この中にも、猿に閉じ込められた人はいるんでしょうか。
あたしはおしゃべりをする気分ではなかったですし、ケトさんも黙って歩いてましし、足元を見て、ずっと自分の足音と周りの人の話し声を聞いていました。
若い男の人たちとすれ違った時に「
ぼふ。
「前を向きたまえ」
「ご、ごめんなさい」
ケトさんの
人にぶつかりそうだったのを、ケトさんが前に入って止めてくれたのでした。
「ありがとうございます……」
「前を。向きたまえ」
黒くて暖かい毛がしゅるしゅる縮んでいきます。碧い光の粒が流れます。これも魔法なんでしょうか。
前を向いたら、いろんな光がきらきらしていて、わけもなく幸せそうな人たちがたくさんいました。あの人たちはお婆さんの群れに、どんな顔をしたんでしょうか。
ざわり。
むしろ、むしろ全部壊れてしまっていたら。みんなあたしと猿の中に。
ざわり、ざわざわ。
「エーラ・パコヘータ」
「えっ? はい」
「歩道に上がれ」
「ほど? え?」
「早くせぬと、巻き込まれるぞ」
言われるまま歩道に上がります。いつのまにか
振り返ります。
人のざわめき。驚く声。馬の鳴き声。馬車のきしみ。そういうのがぐんぐん近づいてきます。その先頭に二つの影です。
ひとつは地面すれすれをすごい速さで飛ぶ、お婆さんを乗せた安楽椅子。もうひとつは安楽椅子に並んで走る、真っ白な猫の頭をした――お姉さん!!
あたしを婆猿の中から助けてくれたお姉さん。
軍隊の鉄砲からあたしをかばってくれたお姉さん。
眼の前を。
お姉さんが。
すごい速さで。
駆け抜けました。
ざん! と鋭い足音。
ぼっ! と渦巻く空気。
前髪が巻き上がりました。
スカートがはためきました。
向こうでお姉さんがお婆さんを追い抜きました。
けぇぇぇえっ! っとすごい声を残して、安楽椅子のお婆さんが煙みたいにかすれて消えました。
びっくりしましたが、安楽椅子はあたしとケトさんにしか見えていないようです。
お姉さんはおばあさんに構わずに走って走って、そのまま
大社殿の屋根から屋根へと飛んで、一番高い塔を飛び越えて、見えなくなりました。
あっと言う間の出来事でした。
「無事、だった……」
思わず声に出ました。ケトさんがあたしを見ました。
「知り合いであったのか? あの白頭と」
「知り合いじゃ、ないと思います。でもあの人は、あたしを猿の中から助けてくれました」
「あやつが婆猿の中に飛び込んだのは私も見た。まだ街に居ったのか」
さっきまでのざわざわした気持ちが蹴散らされました。代わりに、指の先までじんじんと熱くなっていました。
「ケトさん。あれも魔法なんですか?」
「
「魔法なんですね」
「我ら
「じゃあ、チェムさんもあれ、できるんですか?」
「無論だ」
「あたしも、勉強して、訓練したら、あんなふうになれるんでしょうか」
「知らぬわ。あれは人並みを外れておるぞ。妖精や妖魔のほうがよほど近い。若かりし頃のあるじと私でようやく並べるかどうか、という所だ」
「じゃあ、なれるかもしれないじゃないですか」
ケトさんは何かいろいろ言いたそうでしたが、
「まぁ好きにするがよかろう」
とだけ言いました。
好きに。
そっか。
好きにできるんだ。
好きにしていいんだ。
好きにしようと思います。
いいと思います。
いいんじゃないでしょうか。
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