蛇神様の手帳

登美川ステファニイ

蛇神様の手帳

 捨骨しゃこつ街に生臭い風が吹いていた。製油工場で牛や豚の皮を煮込む臭いだろうか。時折流れてくる塊のような強い臭気は、まるで胃の中身をひっくり返す時限爆弾のようなものだ。

 俺は工場に背を向け、寒さに体を丸めながら歩いていく。今日は非番で犬レースの日だった。これは堅い。そう思って金をつぎ込むものの、結果はいつもと同じく素寒貧。財布は軽くなり、この体ごとどこかに飛ばされてしまいそうだった。

「おっと、何だこりゃ」

 風に巻かれて紙切れがひとつ、ぐるりと輪をかくように飛んできた。顔にぶつかりそうになったそいつを手で払うとカサリと地面に落ちる。何が書いてあるのかと見ると、本屋のチラシだった。

「名品、珍品なんでも揃う。へっ、こりゃいいや。明日当たるレースの結果でも売ってるかね。大金持ちになれるぜ」

 軽口を叩きながら俺はチラシをくしゃりと丸めて後ろに放り投げる。本なんざ読みやしねえ。せいぜいが賭け犬の予報紙を眺めるだけだ。

 そう思いながら家路を急ぐでも無く歩いていると、ふと道端に張り出したワゴン売りの古本が目に留まった。

「はて、ここは本屋だったか?」

 ついさっきチラシを見たせいか、古本が目に留まったようだった。なんとはなしにワゴンの中から一冊を手に取ると、当然のごとく書いてあるのは文字ばかり。見ていると頭が痛くなってくるような代物だった。

「駄目だな、俺はどうも本って奴が苦手だ。前世で本にでも殺されたらしいや」

 諦めて立ち去ろうとすると、くしゃくしゃに丸めたチラシみたいな顔をした爺さんが俺を見ていた。

「おっ、お客さん! さては本に興味がないね?」

「えっ……そう、だけど。何だよ、文句でもあんのかい」

「どうしてここに来た? チラシを見たかい?」

「チラシ……ああ、さっき風に飛んできたぜ。名品、珍品何でもそろうってな」

 俺が答えると爺さんのくしゃくしゃの顔が笑った。まるでしゃべる干し柿だ。

「そうかいそうかい! 新規の顧客を開拓しないとこの先未来はないからね! あんたみたいな本に興味のない人を来店させるには知恵を絞らないと」

「知恵を絞るったって、チラシなんざ広報のイロハのイじゃねえか」

「うんうん、そうかもな! ところで何を買うんだい? 今ならセールで一〇冊買うともう一冊ついて来るよ!」

「いや買いに来たわけじゃねえよ。ついふらふらと見に来たがよ、どうも俺は読むのは苦手なんだ。買うのは勘弁してくれよ」

「ほう、買わない! 商売上手だね? 何が欲しい。何が知りたい?」

「いやまあ……知りたいと言えば次の犬レースの勝ち犬だけどよ。そんなもん無理だろ」

「うんにゃ! あるよ、ぴったりのが! ちょっと待ってな!」

 そう言うと爺さんは店の奥に引っ込んで、しばらくゴソゴソとしてから戻ってきた。その手には革張りの本のようなものが握られていた。

「これ! 蛇神様の手帳!」

「手帳? な、なんなんだいそれが?」

「これね、ここのメモ欄に知りたいことを書く。すると次の日の予定欄に、その答えが浮かび上がってくるの!」

「は? どういう仕組みなんだよ?!」

「仕組みも何も神様だからね。そりゃ神通力でしょう」

 じいさんが真面目腐った顔で言うと、はあそうですかと頷くほかなかった。

「うちは貸本もやってるからね。これも貸しって事でいいよ。一週間ね。試して具合がよかったら買ってよ」

「おいおい、おれは別に借りるとも何とも」

「当てたいんでしょ、犬レース!」

 ずい、と爺さんの指が俺の顔に突き付けられる。

「千載一遇の機会、そう思いなさい。人生が変わるよ!」

「お、おう……じゃあ、借りとくぜ……」

「あいよ、一週間後にね! ただし、書いていいのは一個! 二個以上知りたいことを書くと神様困っちゃうから! ね、それだけは守って!」

 爺さんはそう言い残し店の中に帰っていった。木枯らしが吹く。俺は手の中の蛇革の手帳を懐に入れ、家に帰った。


 翌日、俺は家に帰って犬レースの結果を調べた。

「おいおい……まじか? どうなってやがる」

 昨日手帳に書いたのは、明日の犬レースの結果、だった。そして今日のページを見ると、どういう仕掛けなのかレースの結果が出ていた。2―4―1。そして今日最初のレースの結果は2―4―1。ぴたりと当たっている。

 俺は手帳を明かりに透かして見るが何か変な細工がされているようには見えなかった。それに、まさかあの爺さんが夜中に俺の部屋に忍び込んでレース結果を書いたとも考えられなかった。百歩譲って誰かが書いたのだとしても、レース結果が的中するなんてことはまずないだろう。

 蛇の神様。その力を信じざるを得なかった。

「へへ、へ。こりゃあ運が回ってきたぜ!」

 俺はその日も明日のレースの結果とメモ欄に書き、翌日は浮かび上がった番号をその通りに買った。すると大当たり。それが三日続き、俺は確信した。この世界に神はいる。俺は蛇革の手帳を飾る神棚を買い、毎晩それを拝むようになった。

「いやあ左うちわとはこのことだ。札束で扇が作れるぜ。しかしあれだな、毎日一レースしか当てられないんじゃさみしいな……」

 本屋のじいさんは、知りたいことを書くのは一度に一個までと言っていた。だから浮かび上がるレースの結果は最初の一回分だけなのだろう。だがケチな話だ。神様なんだったらもっと気前よく教えてくれてもいいのに。

 ひょっとしたら聞き方が悪いのだろうか? そう思い、俺は明日の全レースの結果と書き込んだ。

 そして翌日、ワクワクしながら予定欄を見ると、そこには何も浮かび上がってはいなかった。

「駄目……なのか? やっぱり一日一個か」

 そう落胆し、俺は今まで通りに明日のレース結果と書いた。これで少なくとも最初の一回分は分かるはずだった。だが翌日の予定欄には、何も浮かび上がっていなかった。

「おいおいまさか……神様がへそ曲げちまってるんじゃねえだろうな?」

 俺は神棚に鮭ともちを飾りへたくそな祝詞をあげて怒りを鎮めようとした。そしてまたメモ欄に明日のレース結果と書き込む。

 だが翌日の予定欄には何も浮かび上がらなかった。

 そして数えてみると一週間が経っていた。あのじいさんに手帳を返す日だったが、このままじゃ終わるに終われねえ。せめてもう一レース、当てなけりゃあ気が済まない。

 俺は会社にもいかずに大急ぎで本屋へと向かう。本屋の軒先では、あのしわくちゃのじいさんが本にはたきをかけていた。

「ようよう、じいさん! この手帳、どうすりゃ元に戻るんだい?!」

「おう? ああ、手帳の兄さん! どうだった、神様のご利益は?」

「すごかったけどよ、実は二つ以上願いを書いちまって……そんで機嫌を損ねちゃったらしいよ。元に戻すにはどうすればいいんだい?」

「あれ! 本当かい! そりゃあまいったねえ。ところで、今日の予定にはなんと書かれてるんだい?」

「ああ? いや、なんにも」

「そうかい、ちょっと見せておくれ……ああ、なるほどね。ちゃんと書いてあるよ」

 爺さんの言葉に、俺はほっと胸を撫でおろす。

「え? 直ったのか?! レースの結果は何だい?」

「うんにゃ、丸呑みだって」

「えっ?」

 すうっと体が軽くなったような気がした。何かと思っていると爺さんが急に背が高く――いや、俺の体が沈んでいた。真っ暗な穴の中に。

「たすけ――」


 パタン、と爺さんが手帳を閉じると、そこには爺さん以外誰もいなかった。

「だから駄目だって言ったのに。まあでも、たまには誰か食べた方が革の艶もよくなるってもんか。ははは。また次の借主を探さないとな……」

 爺さんはそう言い残し、店の中へと戻っていった。

 捨骨街に風が吹く。誰かの叫んだ声が、風に紛れて消えていった。

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