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「だから! これ以上の施しは不要だと言っているんです!」

「なんで?」

「頂く! 理由が! ありません!」


 誠はアリスの隙あらば鏡の向こうの世界におにぎり、パン、駄菓子、誠の作った料理が入ったタッパー、あるいは食料品以外の生活用品――肌着やタオル、布団、歯磨きなどなど――を放り投げていた。


 しかしついにアリスは、欲望を振り切って怒りの声を上げた。


「お金の無駄遣いでしょう! 私などに与える余裕はあるのですか!」

「レストランやってたらどうしたって食材は余っちゃうんだよ。食べて貰えるほうが嬉しい。それに布団やシーツも余ってたやつだし」


 アリスの叱責に、誠は気にしないとばかりに肩をすくめた。

 消耗品がほとんど新品であることについてはしれっと黙っていた。


「そ、それでも時間と金を費やしてくれていることには変わりないでしょう!」

「……じゃあ聞くけれど、アリス」

「なんですか」

「たとえば目の前で、死にそうなくらい腹を空かせてる人間がいたとする。そして今の自分の手元には、食べきれなくて腐って捨てるしかない料理があるとする。どうする?」


 うっ、という声がアリスの口から漏れた。


「そ、それは話が違います」

「どんな風に?」

「私はなにも、あなたから施しをもらわなくとも生きていけます」

「あーあ、残念だなぁ。今日はカレーにしようと思ったのに」

「ううっ」


 カレー。

 もはやそれはアリスの一番の大好物となっていた。


「今日は前のカレーとは違って、バターチキンカレーを作ろうと思うんだ。ルーを使わずに香辛料を使う。さらにカシューナッツをふやかして砕いてカシューナッツミルクでコクを出す。追いバターも入れる。でもこれ、一人分だけ作るのもかえって面倒でさ、寸胴いっぱいになるくらい作りたいんだ。誰か食べてくれる人が居ると助かるんだが、断られるとは思ってなかったなぁ……あーあ、悲しい」

「ぐっ、ぐぬぬ……!」

「一緒に食べてくれる人がいたらなぁ……」

「マコト……それは卑怯です……!」







 そして、気付けば再びアリスは流された。


 カレーの芳醇な香りに抗うことなどできなかった。スパイシーかつコクのあるバターチキンカレーは、前回のカレーよりも好きかも知れないとアリスは思った。


「くっ……欲望に流された自分が憎い……!」

「お粗末様でした」


 誠は、3皿分をぺろりと平らげたアリスを満足そうに眺める。


「中に入った鶏肉の軟らかいこと……これは反則です……!」


 バターチキンカレーは基本チキンだけが具材だが、誠はそこにブラウンマッシュルームを入れることで食感と旨味を強調していた。それによって、香りだけで頭がやられていたアリスは更なるカレーの深みへと引きずり込まれていった。


「次は豚の角煮を使ってカレーを作ろうと思うんだ。今回はマッシュルームを使ったけど、マイタケも悪くないかな」

「キノコですか……子供の頃はよく摘みに行ったものです」

「そっちの世界にもキノコあるのか。どんなのがあるのか興味あるな……。ところで今日は酒があるんだ。アリスは酒飲む人?」

「酒ですか」

「あ、もしかして苦手? っていうか今まで聞いてなかったけどアリスいくつ?」

「26歳です」

「……あ、そうなんだ」


 誠は思った。

 26歳にはとても見えないくらい小さいな、と。

 だがアリスは、誠の反応を勘違いして怒りの声を上げた。


「も、文句ありますか! どうせ行き遅れです!」

「いやいや、単にお酒飲んで良い年齢か聞きたかっただけだって! 他意はない!」

「同じ部隊に居た人達からも早く結婚しろって言われましたし……。戦争終わったから結婚しなきゃって思ってもこんな境遇になってしまいましたし……」

「ま、まあまあ! 人生これからじゃないか!」

「……これから」


 アリスが、真っ白な表情で呟いた。


「これから、なんてものはありません」

「い、いやいや」

「……でも」

「ほ、ほら! 今日はビール買ってきたんだ! 飲もう飲もう!」

「ビール……」

「麦で作った醸造酒なんだが……」

「エールのようなものですか?」

「まあエールビールじゃなくてラガービールなんだが、大体そんなもんだよ」


 誠はビアグラスをアリスに渡し、そこに缶ビールを注ぐ。

 透き通った金色の液体が、鏡の向こう側のグラスへと吸い込まれていった。


「これは……綺麗な金色ですね。それに全然濁ってません」

「さあ、乾杯しよう乾杯!」


 誠は暗くなったアリスの気分を払拭しようと、酒の勢いに頼った。


 それがいけなかった。







「……というわけなんですよぉ。聞いてますかマコト!」


 アリスは、酔うと絡むタイプだった。

 しかもザルだ。

 すでに誠が用意したロング缶ビール10缶、全て飲み尽くした。

 それだけでは足らず、甲類焼酎の水割りをがばがばと飲み始めている。

 誠はすでに自分のリミットを超えつつあるのを自覚して、こっそり水割りではなくお冷やを飲んでいた。


 これ以上酒に付き合って意識を失ったり寝たりするわけにはいかなかった。

 絡み酒とはいえ、相当に重く真剣な話を聞かされていた。

 今アリスが話しているのは、嘘偽りない自分の境遇についてだ。


「……苦労したんだな」

「本当ですよ! あんなに頑張って魔王を倒したってのに、王も側近たちも手の平を返して! あの恩知らずども、全員地獄に落ちれば良いのに!」


 アリスは誠に、吐き出すだけ吐き出した。


 子供の頃に親を流行病で亡くし、孤児院に引き取られたこと。


 孤児院は忙しかったが、それでも楽しく暮らしたこと。


 孤児院を出た後は洗濯屋で住み込みで働いて、ようやく人並みの暮らしができるようになったこと。


 そこの店主に、店主の息子との見合いを勧められたこと。


 その頃に魔王が現れて国を荒らし回り、見合いどころではなくなったこと。


 教会に呼び出されて不可思議な儀式を行ったら、お前は魔王を倒す力を持った聖女だと言われたこと。


 いきなり軍に放り込まれて兵士生活が始まったこと。


 始めはひどく辛かったが、同じ兵士仲間が支えてくれたこと。


 いじめたりからかったりする意地悪な兵士もいたこと。


 訓練所が魔王の軍勢に襲われ、唐突に初めての実戦を迎えたこと。


 優しい兵士も、意地悪な兵士も、戦いの中で死んでしまったこと。


 それ以来、今までより必死に訓練に打ち込み、とにかく強くなろうとしたこと。


 一人の聖女とは育ちが違いすぎてひどく嫌われていたこと。


 もう一人の聖女はちょっと抜けているが、優しく自分の世話をしてくれたこと。


 皆と協力して魔王を打ち倒したこと。


 魔王を倒した功績が大きすぎて、国から厄介者扱いされたこと。


 もはや死刑と変わらないような国外追放と迷宮探索の罰を受けたこと。


 元平民の聖女ということで皆が手の平を返したこと。


 それでも精一杯の手助けをしてくれた戦友もいたこと。


 ここで死のうと思っていたときに、突然異世界の料理人が助けてくれたこと。


 今はちょっと酒を飲み過ぎて吐き気がこみ上げてきたこと。


「うっ、きぼちわるい……」

「ああっ、ま、待った! ほら、袋に吐いて!」

「おえええっ……えほっ、げほっ」


 誠はアリスにビニール袋を渡した。

 こういうとき背中をさすってやるものだが、それはできなかった。

 『鏡』が隔てる向こう側の世界に、生身の腕を伸ばすことはできない。


「……よし」


 吐き出したものが入ってるビニール袋を、誠はある道具を使って引き寄せた。


「これが役立つとはなぁ」


 マジックハンドだ。


 プラスチックの玩具ではなく業務用の頑丈なもので、それなりに重い物でも掴める。ゴミ拾いをする感覚で、吐瀉物の入ったビニール袋や転がった空き缶などをひょいひょいと回収していく。


「すっ、すみませ……」

「良いって、全部任せて」

「はい……」

「他には、何かない?」

「ほか?」

「食べたいものとか、やりたいこととか」

「そうですね……。蜂蜜酒ミードをもう一度飲みたかったです。功績をあげた兵は上官から瓶ごと支給されて、それが羨ましくて……」

「ミードか。ああ、それなら輸入品店とかリカーショップで探せば手に入るな。あ、通販の方が早いかな? ともかく買ってくる。他には?」


 アリスは酔いの回った虚ろな顔のまま、ぽつりと呟いた。


「結婚したかったです」

「結婚」

「とはいえ、もうこんな歳です。後妻や側室を求めるような人にしか相手にされません。いや、そもそも、こんな無骨な生き方をしてる女など見向きもしないでしょう」

「そんなことないって」

「慰めはやめてください」

「いや慰めとかじゃなくて。愚痴はどんどん出して良いけど、そうやって卑下するのはよくない」

「では聞きますけど、マコトが結婚してくれるとでも言うんですか?」


 と言って、アリスは焼酎の水割りを一息で飲み干した。


「いいよ、結婚しよう」

「は?」


 アリスは誠の顔をまじまじと見つめる。


「俺もコンパ行ったり婚活したことはあるけど、どうもピンと来なくてさ。俺は結婚するならアリスみたいな人がいいよ」


 そこで、アリスは吹き出した。

 けたけたと、子供のように笑った。


「そんなに面白かったか?」

「いえ、とても嬉しい……夢みたいです」

「別に夢じゃないけどな」


 だがしばらくするとアリスはそのまま鏡の前で寝入った。

 静かな寝息が聞こえてくる。


「ったく、風邪引くんじゃないか」


 誠は、マジックハンドを使って器用に毛布を掛けた。

 誠から見たアリスは、聖女などではない。


 心に傷を負った、さみしがり屋の、ただの26歳児だった。




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