『カラベ書店』店頭安売り雑談
金井花子
第1話
空の色は夜明け前。漆黒の夜空と朝日に輝く空の境界。
春の到来は目前だが、まだまだ朝は寒い。薄い布団の中、寒さで目覚めることになった男は眠い目を擦りながら起床する。
時間の上では朝であるも、外を歩く人はまばら。恐らくは朝方まで飲み歩いていた者たちだろう。
これから寝るのか、はたまた僅かな睡眠を取って仕事に出向くのか、いずれにしろご苦労様、と言うやつだ。
布団から出た男は畳の上に放り投げていた上着に袖を通すと、覚束ない足取りで一階――即ち自分の仕事場へと向かう。
下に降りた男を迎えるのは、大量に敷き詰められた本とそれらが発する匂い。幼い頃から本の共に生きた男には安堵を覚えさせてくれるが、同時に仕事場でもある為に自然とスイッチが入る。
都内某所。古本とカレー香るこの街に店を構える『カラベ書店』、男はここの店主だ。外観は如何にも歴史ある建物内で、現にこの書店は男の祖父が開いたもの。
最も周囲の歴史あり、特色ありの書店に比べれば、ここにはなんの取り柄も無い。そんな書店がこうして生き長らえているのも、ひとえに紙の本を愛する者や希覯本の存在だろう。
本は好きだが、商売の才はからっきし。今に至るまで、何ら己の研鑽をしていない男にとっては行幸だ。
仕事も一日中座って読書に耽り、時折埃を払ったりする程度。あとは、時々熱心な学者や生徒の相手をし、ふらりと立ち寄った新規の客と本を売買するだけだ。
丸一日客が来なければ、店じまいまでに本は5冊ほど読み終える。既に書店内にある、本嫌いが入れば息苦しさで絶命しそうな本の山々を八割ほど読破している。
となると、いずれ読む本が無くなってしまうのでは、と心配性な方々もいるかもしれないが、問題ない。
一定周期で客が本を持ち込んでくるので、半永久的に男は本を読んでいられる。何よりもこの世には一生をかけても、読み切れなきほどに本があるのだ。
今の社会は読書好きである以上、困ることはない。毎年新しい本が星の数だけ現れ、流星の如く瞬く間に本という大海に紛れていくのだ。
店開きの前に男は毎日の日課を始める。昨夜遅くまで読んでいた本を棚に戻すと、今日読む予定の本を吟味するのだ。
この時間はたまらない。
ふらりと立ち寄った書店で買いもしない本を見ていると、何か分からぬがワクワクしてしまう方々には理解できるだろう。
本の出会いというのは、ありきたりな表現であるが人との出会いと同じだ。内容がどうであれ、それはとても尊く素晴らしい。
その日にどんな本を読むかによって、明日の人生は変わってくるものだ。無論、微々たるものかもしれないが、塵も積もれば――何とやら。
男は今日読む本を手に取ってレジ横に置くと、もう一つの日課を始める。
売れそうにない本や、汚れていたり傷があるものを見つけて数冊手に取る。
これらの本は店の外に、安売り用のカゴの中に入れるのだ。あまり本を安値で売るのは男としても忌避したいが、それでも誰かが手に取り、買ってくれた方が本を嬉しいだろう。
男はそこで少し汚れた本を見つけ、棚から取り出す。
懐かしい本だ。自分が覚えている中で、最も幼い頃に読んだ本。
男があまりにもこの本を好んだので、彼の父が店名にその本の要素を入れてくれた程。
惜しむ気持ちはあるが、内用は既に知っている。
男はその本を安売りの本と一緒にすると、外に出る。
「……あれ? 店長さん? 店長さん! どこ、行くんですか!? そっちは外――って、寒ッ! 寒すぎ!」
男は安売りのカゴに本を入れると、朝方の冷たい空気を吸い込み、深い呼吸を一つ。
そして、店内へと戻ってしまう。
「……ちょ、ちょいちょーい! 店長さん! ここ、俺の場所じゃないって! 戻してー、店の中に戻してー!」
「おっと、どうやら新入りだ。皆、暖かく歓迎してやれよ」
「ようこそ! ようこそ! 外の世界へ!」
「ようこそ! ようこそ! 地獄の釜の底へ!」
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