曼珠沙華

桐生 慎

壱之書 鬼子

※曼珠沙華(まんじゅしゃげ)(仏法用語)

 天上に咲くと言う花の名。四華の一種で、見る者の心を柔軟にすると言う。


 その町内で「美人は?」と問えば、十人が十人「ああ、鳴神(なるかみ)さんのところのあさぎさんと遙日さん!」そう即答する。鳴神姉妹の美貌は町内で知らぬ者がない。ここで「では、伴侶にするならどちらが良い?」そう尋ねると、皆、無言で視線を交わし合い、押し黙る。

「―――気立ては、あさぎさんだよな?」

「そうだな。誰にも分け隔てなく笑って挨拶をしてくださる」

「遙日さんは―――あさぎさんより美人だが、人離れしている」

「そうだな。挨拶も黙礼だけで喋らない。あれだけ美人であれだと、声もかけられないよな?」

「しかし―――あさぎさんは……」

「ああ、剣を取ると別人だ。あの気合いが遠くから聞こえるだけで、金玉どころか寿命まで縮む思いがする」

「ふだんでも柔和に見えて……」

「そうだ、話していても隙を見せると斬られそうで、冷たい汗が止まらない」

 これである。ちなみに老若男女を問わず、噂話ですら、この姉妹は敬語で語られる。


 ずば抜けた美貌で町中の人々の羨望の眼差しを集める鳴神姉妹だが、対等の女性と受け止める人は皆無だ。いや、既に同じ種類の人と思われていない。羨望と崇拝。そして畏怖の対象になってしまっている。何より、ここが問題だが、二人とも二十代の若い女性なのに町中の人々が彼女らにまず抱くのは、原初の神に対するかのような畏怖なのだ。


 鳴神家の主人、鳴神威三郎は現役時代に三回、剣道の全日本大会を制した強者で、寄贈された剣道場で師範を務める。県警の剣道部にも師範として週三回招かれている。子供の頃はそれこそ天使のように可愛かった愛娘に剣の手ほどきをしたのは彼だ。愛妻の八千代さんも現役時代は全日本大会の常連であった猛者である。

 彼らが自らの娘の才能と器に、親馬鹿とも言える期待を持ったのは止む得ぬ話だ。

 が、天使のような容姿をした姉妹の器も才能も、両親の期待を受けるだけに甘んじるものでは無かった。その才は期待を凌駕した。親は子供の過ぎた才能には本能的に反感を抱く。それどころか潰そうとする。それが親の身勝手と言うものだ。

 二人の姉妹が小学校に上がった時には、鳴神威三郎の娘に対する剣は狂気を帯びていた。少なくとも周囲にはそう見えた。

 体格では子供の娘を満身の力で突き飛ばし、倒れた所を竹刀で無茶苦茶に叩き付ける光景が見られるようになった。道場に通う体大生が数人がかりで引き離さねばならい程の狂気を帯びていた。リンチに等しい稽古にあっても幼い美少女の姉妹は泣くことをしなかった。目は青く冷たく光り、無表情で取り乱さない。稽古を嫌がることもなかった。

 彼女らは父を信頼していた。幼いから常識も知らない。これが剣と言うものだと信じた。威三郎にとっては皮肉極まりない話である。

 鳴神道場の門下生は、この二人の美しき幼い神の使いのような姉妹の剣への態度に、ようやく驚愕を覚えるようになった。幼女なのだ。「痛い」と泣けば威三郎とてこのような狂気に陥らなかったであろう。が、天使の美しさと威厳を生まれながらに持つ姉妹は、押し黙り、氷を思わす青光する瞳で威三郎を見据える。門下生達はこの二人の態度が父をして狂気に貶めていることを悟った。


 剣技とは、突き詰めればいかに効率よく相手を斬り伏せるかと言う点に集約される。

 鳴神あさぎは小学校五年生で化けた。

 いつもの通り、父に勢い良く転ばされ、地に倒れた時、猫のようにくるりと受け身を取った。中腰の姿勢で、飛びかかる父に初めて反撃した。脛を少女とは思えぬ打ち込みで薙ぎ払った。脛への打突の痛みは筆舌し難い。

 威三郎は堪らず、道場の床板に突っ伏した。

 その打突の音だけで、衝撃が骨に響くものであることは、その稽古を見守っていた猛者には分かった。彼らは戦慄した。小学生の少女が放てる打突の域を超えていたのもあるが、彼らが戦慄したのはその剣筋であった。外側から力任せに振り回したものではない。開いた父の足の内側から打った。それは真剣で相手の肉体を叩き斬る達人の剣筋であった。内側には静脈が集中する。実践剣術はそこを打ち込むよう体に教え込むが、あさぎは天性の才で無意識にそれを会得していた。

 このとき、あさぎは終始無言で叩きのめされていたのと打って変わって、「きぇぇぇぇ!」と言う、原初の恐怖を呼び起こす化鳥の叫びを上げて、高く跳躍した。竹刀を逆手に持っていた。無論、こんな構えは誰も教えていない。あさぎの本能がこの構えを取った。切っ先に全体重を掛けて、あさぎは落下する。その剣先が狙うのは、倒れて露わになった威三郎の喉仏だ。

「やめろ!」

 誰かが叫んだ。無駄だ。止めようもない。あさぎの切っ先は父の喉仏を潰した。威三郎は大喀血した。が、あさぎは、生まれて初めて見たであろう鮮血に怯む様子もなく、そのまま父に馬乗りになると、その面をはぎ取り捨てた。剣道では面を外されるのは完膚無き敗北と見なされる。

 あさぎは父に跨ったまま、少女の無邪気さで呵々大笑する。

「やった♪ やった♪ やっと、パパから一本取ったよ! パパ、褒めてよ! 寝てないで褒めて! いい子。いい子して!」

 この時のあさぎは、父がすでに人事不省に陥っていることを理解していない。これまでの虐待をあさぎは父の愛による稽古と受け止めていた。あさぎに取っては、超人に思えていた父が倒れると言う発想が無かったのだ。


 剣の世界では、ある一線を越えると飛躍的な進歩を遂げることがままある。鳴神あさぎもその例外ではなかった。

 いや、言葉を翻そう。彼女は例外だった。

 彼女の剣技の進歩は常軌を逸していた。

 鳴神道場の名誉顧問として招かれている老剣士・宮崎春雪はこう言った。

「そもそものスタート地点が違う。あさぎちゃんは、幼稚園で歩法を完璧に習得していた。そして才能と言うのか? 剣を習得する速度が化け物だ。我々、常人が16ビットのコンピュータなら、あの娘は最新の64ビットのCPUを積んでいる。我々の剣技を見るだけで習得している。そして剣は体格差や腕力差を技で超えることに神髄がある。恐ろしい話だが、あさぎちゃんは鳴神威三郎にただ叩き伏せられていたのではない。冷静にあの達人の剣筋、体裁きを、見取ることで打ち破る術を見いだした。そして、これこそが問題じゃが、あの娘の剣は、剣道のそれではない。人を斬ることに特化した修羅の剣技じゃ。立ち会いを見て分かった。あの気迫の前では、生半可な技を出すことも適うまい。お前ら、今後、あの娘との立ち会いを禁ずる。言っておくが、あの化生の為ではない。お前らの為じゃ。お前らは日本剣道界をこれから支える義務がある。じゃが、今のあの娘と立ち会えば、お前らの剣は性根で折れて、剣を取る気力も奪われる」


 宮崎春雪は小学五年生の少女を『化生』と呼んだ。もう手が付けられない化け物だと言ったのだ。「では、幼い彼女をこれからどうするのです?」その問いに、老剣士は答えた。「古流には修羅が群れなす魔境がある。親元を離してそう言う魔窟に預けるしかあるまい。それでも……あれ程の修羅。折れるとは思わぬが。あれは百年に一人の怪物じゃ。剣が物を言った時代ならともかく、現代では忌み子じゃ。哀れじゃが……。二天様ほどの位のお方でなければ育てられまい」


 鳴神あさぎは紆余曲折の後、柳生流に預けられることになった。彼女は小学生から中学卒業までの思春期を、その修羅を落とすために幽閉されることになった。父親である鳴神威三郎は、ただ一言「頼みます」と言う一言で娘を放逐したのだ。


 しかし、幼い少女を赤の他人の下に預けるには様々な手続きが必要だ。実際、鳴神あさぎが奈良の山中の柳生の里へ送られるまでには三ヶ月を要した。名だたる剣豪揃いの鳴神道場の中にあって、誰の指導も受けられなくなったあさぎは、それでも道場を休まず、鏡の前で黙々と素振りをした。その竹刀の風切り音だけで、道場の門下生は肝を冷やした。そんな孤独のあさぎの前に立ったのは、妹である鳴神遙日だった。

 幼いなりに成り行きを悟っていたあさぎは、修羅を思わせぬ、愛おしむ態度で妹に稽古をつけた。自分が得た剣技の百分の一でも妹に注ぎ込もうとする姿は、心優しい門下生の涙を誘った。

 が、そう言う美談で話が終わるほど、この姉妹の器と才能は甘くなかった。全日本代表の現役の男性剣士ですら、幼女とも言える鳴神あさぎと竹刀を併せれば、蛇に睨まれた蛙になるのだ。いかに愛おしく接したとしても、あさぎの剣気は抑えられる性質のものではない。遙日は姉と竹刀を合わせる度に、魔物と対峙する恐怖を深く植え付けられた。それでも、姉愛おしさに稽古に励んだ。遙日も父・威三郎をして恐怖に貶める器の持ち主であった。姉との三ヶ月の稽古は当然、彼女の剣を変えた。いや、精神を変えてしまった。


 姉が柳生へ赴いたその日。遙日はまず父と対峙した。

 小学二年生の小娘に右上段の構えと言う大人げない構えを取った威三郎だが、愛娘の眼を見て戦慄した。青く底光りするその眼には一切の感情がない。威三郎は自分の心の内が全て読まれる恐怖を覚えた。

 恐怖から、気を練り足りない大技の面を、威三郎は不覚にも放っていた。それでも相手は小学生になったばかりの幼女だ。その面は落雷の勢いで頭頂へ落ちる。遙日は叩きのめされる筈だった。

 威三郎は大きく空振りしてたたらを踏んだ。

 威三郎は何が起こったのか、理解出来なかった。彼の目には娘が霧散して消えたように見えた。

「鳴神! 何をしておる!」

 道場の板が震える老剣士・宮崎春雪の叱責に、威三郎は我に返った。と、同時に大きく左に飛んでいた。何の気配も無く、竹刀もだらんとぶら下げた状態で遙日がすぐ右横に立っていたのだ。

(―――なんだ?)

 こんな体裁きは長年の剣道生活でも経験したことがない。遙日は竹刀を下げた状態で、慌てふためいて跳躍した父にゆっくりと視線を移す。なんの感情もなかったその眼に微かな侮蔑が混ざった気がした。威三郎は戦慄した。今となれば、あさぎが希代の天才かつ猛獣だったことは理解している。だが、遙日は―――まだ幼く、ただ一心に父を慕う愛らしさがある娘であったはずだ。その娘が竹刀をだらんとぶら下げた姿勢で、ゆっくりと歩み寄って来る。あさぎにあった修羅の気はない。だが、人とは思えぬ冷たい気はさしずめ亡者のようである。威三郎は生理的恐怖から、渾身の突きを放った。全日本の大会でも避けきれる者がいなかった威三郎の得意技だ。

 決まると思ったその瞬間。遙日の姿は再びかき消えた。

 今度は老剣士の大喝も無かった。

(どこに行った?)

 威三郎が周囲を見回そうとしたその時、後ろからポンと竹刀が軽く威三郎の頭を打った。驚愕して、振り返ると完全に侮蔑の眼になった愛娘が威三郎を見上げていた。

「―――なんだ。パパはお姉ちゃんを強くする為に、遙日から取ったんじゃないんだ。パパより強いから邪魔になったんだ。だって、パパ。こんなに弱いもん」

 言葉を失った。あまりのことに威三郎はその場に腰を抜かして座り込んだ。

 放心している威三郎を宮崎春雪の命で道場の隅へ弟子が引きずって退場させる。

 遙日はそんな父に興味を無くしたかのように、道場の真ん中で、竹刀を肩に載せて、惚けたように天を見上げていた。

「春日野!」

「はい!」

 宮崎春雪の呼び声に、今年度の全日本剣道大会の覇者が答えた。大阪府警の誇る強者である。

「あの童女と立ち会いなさい」

「はっ……」

 答えはしたものの、春日野は戸惑っている。当然だ。遙日は興味の失せた視線を春日野に向けはしたが、相変わらず道場の真ん中で惚けて立っている。竹刀は肩に担いだままだ。

「遙日ちゃん。試合です。構えなさい」

 遙日は底冷えのする眼で春日野を上から下まで見る。構えない。

「―――パパより強いね。お兄ちゃん。でも、だめだよ。お姉ちゃんに比べたら、相手にならない」

 春日野は怒ったりしなかった。童女の言葉をそのままの重みで受け止めた。実を言えば、春日野は鳴神威三郎が鳴神あさぎに倒された時、激しい血の疼きを覚えていた。一人の剣道家として鳴神あさぎと立ち会いたいと切望した。老剣士・宮崎春雪は日本剣道界の重鎮にして未だ無敗を誇る尊敬する師である。その師が立ち会いを禁じた。だから、鳴神あさぎとは立ち会えなかった。だが、この童女・鳴神遙日とは立ち会えと言われた。姉とは剣風がまるで違うが、おそるべき使い手として春日野は認識している。故に試合を捨てた。春日野は鹿島一刀流と言う古武道を学んでから剣道へ転身した異端児である。彼はこの達人とは命を賭けた立ち会いで臨むしかないと瞬時にそう判断した。

 春日野は試合剣道では意味がない八艘の構えを取った。右足を大きく後ろに退き、その右足に隠すように剣を後ろへ流す。大振りで畳みかけるように斬りつける、一発勝負の実戦の構えだ。その構えを見て。遙日の瞳に僅かに光りが点った。

「へぇ。おねえちゃんの仲間だったんだ……」

「―――どういう意味だい?」

 愛くるしい童女はクスクスと笑う。

「お兄ちゃんは人じゃない。鬼だよ」

 春日野は苦笑した。遙日の言葉の意味が良く分かる。そうだ。自分は常に人を斬ることだけを考えていた。竹刀剣道は自分を満たしてはくれなかった。遙日はすっと、竹刀の切っ先を春日野の喉元に向けた。姉譲りの凄惨な笑みを浮かべていた。春日野は同じ笑みが自分の顔に浮かんでいるのを意識した。剣道を始めて、ようやく血がたぎるのを感じた。

「構えてくれるのか?」

「うん。潰してあげる。お姉ちゃんを追い出したのを後悔させてあげるね」

「嬉しいな。子供相手とは思わない。鬼の本気、受け止めてもらうぞ」

「鬼の妹は、他の子鬼には負けないよ」

 遙日の眼が青く輝く。春日野は全身の毛が逆立った。獣の咆哮を上げた。自分の腰にも届かぬ童女の頭に、怒濤の波の勢いで剣を振り下ろす。その瞬間、春日野は見た。小さな遙日の身の丈が半分に縮んだ。いや、しゃがんだのだ。そのまま弾丸の勢いで春日野の懐に飛び込む。懐に鬼が飛び込んだ。春日野の剣は外され、その腕の中に人形の様な遙日がすっぽりと収まる。感情の無い青い瞳が真下から春日野の眼を射る。

(殺られる!)

 春日野は戦慄する。本能が死を告げている。この間、僅か0.2秒。他の門下生には春日野の打ち込みも見えていない。そして遙日は消えたとしか見えていないだろう。これで良い。春日野は死を覚悟した後、充足感を持ってそう思った。こういう立ち会いで死ねるならそれで良い。そう思って瞑目した。

 永い間があった。

 死を伴う激しい衝撃はやって来ない。

(なんだ?)

 春日野は眼を開けた。真下からあどけない瞳が揶揄を含んで自分を見上げていた。幼子はそっと構えた竹刀を伸ばした。春日野の喉元をその竹刀の切っ先が優しく押さえた。

「はい。死んだ」

 遙日は笑顔で言った。

 春日野はその精神に激しい衝撃を受けた。童女の言葉を聞いた瞬間、体から力が抜けた。 遙日は笑顔で言う。

「鬼じゃなかったね。お兄ちゃん。鬼は死ぬなんて思うことすらないんだよ」

 では、この童女の姉・鳴神あさぎはどれほどの者なのだ?

 春日野は戦慄して、そう思う。この童女が『鬼』と呼び、誰も適わないと公言する鳴神あさぎは、どんな境地にいると言うのだ?

「春日野。もう良い下がれ」

 宮崎春雪が静かに言う。

「はっ」と答えて、春日野は、いや、道場の全員が目を剝いた。

 生ける武神と言われた宮崎春雪が十年ぶりに竹刀を手にして立ち上がっていたのだ。

 遙日は今までにない険しい表情で宮崎老を見据えていた。竹刀を持つ手にも力が入り小刻みに震えている。

 宮崎春雪は静かに歩を進め、遙日の前へと進む。宮崎老の間合いになった時、遙日が叫んだ。

「なんで、おねえちゃんを追い出したの! お爺ちゃんなら、おねえちゃんを止められたのに、なんで?」

「儂が? 無理だ。敵わぬよ。遙日。君のお姉さんは人かね?」

 その言葉に遙日は、はっと驚愕の表情を浮かべる。

「止める気はあったよ。家族が離ればなれになるほど辛いことはないからな。あさぎは、君のお姉さんは稽古相手がいなくなっても道場に来た。来るべきじゃなかった。父親を病院送りにした意味を考えるべきだった。あさぎは鏡の前で素振りをしていた。遙日、君はお姉さんが一人で素振りをしているように見えたかね?」

 遙日は頭を振る。

「儂には相手は見えなかったが、あさぎは明らかに何者かと対峙し、それを切り倒していた。素振りではない。立ち会いをしていたんだ。相手が鬼神か自分の影か、儂には分からん。だが、その素振りを見て儂はあさぎが人でなくなったと判断した。遙日。君はなぜ姉に近づいた? なぜ教えを請うた? 君はお姉さんを人に留めておきたかったんじゃないかね? だが、あさぎは君に何かを注いだ。お父さんや春日野を倒したのは君の力ではない。鬼から注がれた力そのものではないのかな? 良くない力だ。儂が今、抜き取って上げよう」

宮崎春雪は流れるように竹刀を正眼に構える。遙日も又隙のない動きで正眼に構えた。

 門下生達は二人が向き合っただけで、体が強ばり、冷たい汗が背を流れるのを覚えた。そこにはこれまで見てきたどんな立ち会いにも無い、空気すら凍り付くような気が両者を包んでいたのだ。

(……どちらかが死ぬ)

 遙日の父・威三郎を含めて道場に居た全ての者がそう感じた。それほどまでに二人の立ち会いの気の張り詰め方は凄まじかった。どこまでも静謐で激しかった。

「―――お爺ちゃんが、あさぎお姉ちゃんを止められなかったのは分かったよ。十年遅かったって……」

 十分ほどの微動だにしない立ち会いで遙日が呟いた。遙日の構えに気負いは無く、汗もかいていない。一方、宮崎春雪は目に見えて消耗している。

「―――遙日。切っ先の先に儂が見えているかね?」

 遙日は小さく頭を振る。

「青くて丸い光りしか見えない。わたしはその光りと共に動いているだけ」

 春雪は鳴神あさぎと言う少女に改めて舌を巻いた。妹に与えた僅かな置き土産ですら、このような物だったのか! ならば、あれはどれ程の剣気を身に纏っていると言うのだ?

「その光り。儂の切っ先に移すことは出来ないかね?」

 遙日は一瞬黙った。

「ご老体。貴殿の定命は二ヶ月先で途絶えている。十年早ければ、貴殿と共にあるのも良かったがな」

 口調が幼い少女のものではなかった。太く、そして相手の肝を握るような男の声であった。宮崎春雪は苦笑を浮かべる。道場にいた者は皆、背筋が凍る思いをした。

「ならば、残りの命を賭けて消えてもらおう」

 宮崎春雪の切っ先がひゅんと弧を描く様にしなったかたと思うと、遙日の竹刀は巻き上げられて宙に浮いた。その竹刀の切っ先三寸に宮崎春雪は渾身の気合いで、自らの剣を叩き付けた。遙日の竹刀は空中で砕け散った。と同時に遙日は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

「―――遙日!」

「―――遙日ちゃん!」

 威三郎が、門下生が叫んで立ち上がる。春雪はよろめいた体を竹刀で支えて一喝した。

「騒ぐな! 憑き物が落ちて気を失っただけだ。威三郎。寝室へ連れて行ってやれ。そなたの娘なのだからな。勿論、あさぎもそなたの娘だ。努々、忘れるでないぞ」

 春雪はそう言うと威三郎の肩を優しく叩いた。そしてそのまま昏倒した。


 遙日は翌朝目覚めた。枕元に両親が並んで座っているのを不思議そうに見つめた。

「パパ。ママ。おはよう」

 鳴神夫妻は顔を合わせ、同時に安堵を浮かべた。

「おはよう。遙日。気分はどうだい?」

「ふつうだよ。ママ、朝ご飯は? 学校へ行かなきゃ」

「今日は休んだらどうなの? あなた、昨日、道場で倒れたのよ。覚えていない?」

「覚えてるよ。大丈夫だから、学校くらい行かなきゃ」

 遙日はそう言って微笑んだ。愛くるしい娘の姿に威三郎は相好を崩した。

「お母さん。ご飯を作ってくれるかな?」

 母親の八千代は目尻を拭って台所へ向かった。それを見送ってから、遙日は幼い顔を父に向けた。

「パパ。遙日はもう道場には行かないね。もう、剣道はしないよ」

 幼い口調ではあったが、その言葉には確固たる意志が籠もっていた。威三郎はこれを予感してはいた。だから、優しい口調で問うた。

「なぜだい? 宮崎先生と立ち会って怖くなったのか?」

 遙日は眼を伏せて哀しげに首を振る。

「遙日がお爺ちゃんを殺しちゃったからだよ。だけどね、お爺ちゃんが居なくなっても、あさぎお姉ちゃんがいるもの。お姉ちゃんは剣の世界を変えてしまうんだって。だから、遙日は遙日の世界を行くの」

 小学二年生の娘の言葉とは思えなかった。威三郎はぞわりとした。畏怖を覚えた。

「宮崎先生は生きておられるよ。遙日は夢を見たのかな?」

 遙日はすっと天上を見上げた。

「駄目だよ。お爺ちゃん、もう、そこに居るもの。最後の言葉だって。パパ。『あさぎはお主の娘だ。愛してやれ』だって……」

 威三郎は思わず息を飲んだ。その直後、階下に下りていた妻の八千代が慌てて階段を駆け上がり、宮崎春雪の訃報を伝えると号泣した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る