ポピヨン村田の短編置き場

ポピヨン村田

雨ざらしの妖怪

「あざらしの妖怪?」


「ちがうちがう、雨ざらしの妖怪! ずぶ濡れなんだって」


 オカルト好きな弟は、まだ空想と幻想が現実と地続きな小学生である。


 そんな弟の世界に、また新しい不思議が舞い込んできたようだ。


「あざらしの妖怪は多摩川にいるのかい?」


「雨ざらしの妖怪だってば。……まぁ、多摩川にいるとこは同じだけど」


 弟は私がわざと聞き間違っているのだと知っているので、大人のウザ絡みに対してぷんぷんと怒っていた。


 けれど私の前から肩を怒らせて去っていかず、なんならもじもじとつま先をこすり合わせているのは、思惑あってのことだ。


「わかってるよ、行きたいんだろう?」


 弟の顔がぱぁっと輝いた。小学生のこのころころと変わる顔は、日々社会で精神をすり減らすサラリーマンの心に大変沁みる。


「ありがとうお兄ちゃん!」


「ふふ……はいはい。お母さんには説明しておくからね」


 弟は小躍りしながら、噂の妖怪に会うための準備に取り掛かった。


 ちいさな弟がおおきなリュックいっぱいに荷物を詰める様子を横目に、私はその日の仕事を終了させるために集中した。


 この弟の約束のことを思えば、普段けだるく取り掛かるリモートワークにも身が入るというものである。


「会えるといいね、タマちゃん」


「せめてあざらしの妖怪って言ってよ!」


 そうして私と弟は、雨ざらしの妖怪とやらに会うため夜の多摩川へと向かった。


 ――


 さて、多摩川近辺はよく整備されて開けていて、釣り人やキャンパーの聖地となっている。


 さりとてわざわざ雨の日に、しかもすっかり日が暮れた頃にテントにこもっている酔狂な人間は、私たち兄弟くらいのものであろう。

 ※よい子は絶対真似しないように。


「雨ざらしの妖怪は夜に出るんだ。だから今日は一晩中起きてるよ」


 弟の目はギンギンと輝いている。昼間にたっぷり昼寝しておいたので、いつもは就寝の時刻になっている今でも元気いっぱいである。


「がんばってね」


 私は、ガスコンロでわかした湯でコーヒーを淹れながらそれだけ言った。


 カフェインも入れてないのに飽くことなくテンション爆裂な弟は、湯気ののぼるステンレスカップをうらやましそうに見ている。


「お兄ちゃん、ぼくココアが飲みたい!」


「いいよ、持ってきたの?」


「うん!」


「コーヒーじゃなくていいの?」


「お砂糖は持ってきてないもん。だからココア!」


 弟がココアを選んだ時点で、もうは見えていたが、私は目を細めるだけにしておいた。


「はい、どうぞ」


「ありがとう! ねぇお兄ちゃんマリカーやろ! それが終わったらトランプね、ぼく神経衰弱強いから神経衰弱やろうね。あとはね……」


 弟のリュックからは無限におもちゃがわいて出てきた。昼間に一生懸命行っていた準備はこれだったらしい。


 まぁ大事はない。キャンプ用品は全部私が車で運んできているので。


「はいはい、一個ずつやろうね。夜は長いから」


「えへへ、うれしいなぁお兄ちゃんとキャンプ!」


 小学生というものは、得てして目的と手段が入れ替わりがちである。本人がそれに気づいてないというのが、大変よろしい。


 私はコーヒーをすすりながら、うんうんとうなずいた。


 ――


「ううーん……しゃむ……」


 予想通り、弟は持ち込んだ漫画を開いて横になった時点で当然の権利のように寝落ちした。


 予想通りとはいえ、意外と弟は粘った。一年も前ならココアを飲み干した時点でこっくりこっくり舟をこいでいたというのに、大きくなったものだ。


 私は弟に何枚か毛布をかぶせ、レインウェアを着てテントの外に出た。タバコが吸いたくなったのだ。


 外はしとしと雨が降り続いている。


 川は水量を増し、妖怪でもあっさり流されそうな勢いであった。


 私はタバコの火を手で守りながら、ぼんやりと濁った川の様子を眺める。


 かつて一部の人々を熱狂させていたタマちゃんだが、いつの頃から姿を消し、人々の記憶からも消えていった。


 弟はまだ生まれる前だったから知らないだろうが、あの時はお祭りのようなムードだったなぁ……と、タマちゃんにさっぱり興味のない子供であった私は振り返るのだった。


 タバコが一本終わりそうになった。携帯灰皿に押し付けようとして、ぽとりと取り落とす。


 拾おうとかがみこんだその時、私は誤って足をすべらせた。


 そのまま川に身を投げ出した私は、体が勝手にどこかに運ばれていくのを感じた。


 抗えない、強大な自然の力が私を押し流していく。その間、水中で暴れまわる枝や石が私の体を無慈悲に傷つけていった。


 とっさに、『死』の一文字が脳裏をよぎる。


 日常からシームレスに命の危機へと移行した私は、薄れゆく意識に抗いながら、心の中で叫んだ。


 助けて、誰か――。


 雨ざらしの妖怪でも何でもいい。私を、助けて――。


 すると濁流でつぶされていた私の目に、光の塊のようなものが映った……ような気がした。


 その光は不思議なフォルムをしていた。


 なんというか、ぬめっと丸い。巨大なクリオネのような形というべきだろうか。しかし、妙に犬っぽい表情もしている。


 私はこんな生き物に対して心当たりがあった。そう、確か感じで書くと海豹、あれはひょっとして――。


「あ……あざらしの妖怪?」


 私は自分のその一言で目を覚ました。


 気づけば、私はテントからそう離れていない川のふもとにあおむけで倒れていた。


 ――


 不審者として通報されなかったのは運がよかった。いや、それよりも、


「い、生きてる……」


 そちらの方が何百倍も幸運であった。


 雨は相変わらず降り続いている。頭からつま先まですっかりずぶ濡れになった私に、雨粒の一粒ひとつぶが一体化していた。


 私はしばらく雨をその身に受け続けながら放心していた。命からがら生還したという事実を何度か反芻していた。


 やがて日が昇りはじめたのを契機に、私はのろのろと立ち上がり、テントに戻っていく。


 濡れて重くなった体を引きずるようにして歩きながら、私は思う。


 あのあざらしは幻だったのだろうか? それとも本当にタマちゃん?


 弟の影響で、オカルトが自分の世界に浸食してきているのかもしれない――。私は、一旦そう結論づけることにした。


「お兄ちゃん、どこぉ?」


 テントにたどり着く前に、弟がテントから這って出てきた。


 朝起きたら、隣にいるはずの兄がいないのだからさぞ不安な目覚めであったことだろう。


 私は疲れた体に鞭打ち、両手を広げ、弟を抱きしめる準備をした。


「あ……」


 しかし。


 私を見つけた弟は開口一番、真っ青な顔で、こう言った。


「雨ざらしのよーかいーーーー!!」



 ――



「ごめんなさい、ごめんなさいお兄ちゃん」


「別に怒ってないってば」


 帰りの車中、助手席でべそべそに泣く弟は、タンブラーに詰めてきたコーヒーをカップに注いで私に差し入れていた。弟なりの詫びらしい。


 (勘違いとはいえ)本物の妖怪にエンカウントした恐怖と、兄を妖怪呼ばわりした申し訳なさが小学生のちいさな胸で混ぜられて涙という形で出力されている。


 運転中なのでその顔をまじまじと見られないのは本当に残念だ。


「でも、案外本当に私が雨ざらしの妖怪の正体なのかもね?」


「どういうこと?」


 弟が小首をかしげた気配を感じながら、私は続けた。


「私のように、雨の日の川に落ちてなんとか助かった人のことを、みんなが雨ざらしの妖怪って呼んだのかもよ?」


「ちぇー……なんだ。じゃあ妖怪じゃないじゃん、それ」


 さっきまで泣いていたのにもうふてくされている。そんな弟を見られないのは、本当に、本当に残念だ。


「でもお兄ちゃん、よくあんなはげしい川の中で無事にかえってこれたね」


 赤信号で車は停止する。私は栄養補給がてら弟の顔を眺めた。


「ああ、なんか不思議な誰かに助けられて――」


 私がつい口を滑らせると、弟はぐいと身を乗り出してきた。


 その目はきらきらと、太陽のように輝いている。


「お兄ちゃん、それ、本物の雨ざらしの妖怪じゃない!?」


 私は唇を噛んで、必死に笑いをこらえた。


 実際、弟の言う通りかもしれない。あの光の正体は人間に友好的な妖怪、その名も雨ざらしの妖怪の可能性は、あるといえばある。


 それを弟に言ったら、どんな反応をするだろう。


 興奮のあまりはちゃめちゃに暴れまわりたいのに、狭い車中だからそれができずじっと赤い顔で耐える弟の姿を想像して、私は今にも全身から笑みがこぼれそうであった。


 信号が青になった。私は再び前を見てアクセルを踏む。


 それは、また別の機会でじっくり味わいたい。


 ここでは、弟の観察を腰を据えてできないから。


 だから今の私は、こう言うのみにとどめた。


「ははは、私が見たのはあざらしの妖怪さ」


「なんだよもうー!」


 私は、今日一かわいい反応を見せる弟を連れて、愛する我が家へと車を走らせたのであった。

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