第89話 月の夜

 麹の出来栄えを確認する食べ物といえば、甘酒である。


 甘酒もまた発酵食品だ。

 麹と米と水を混ぜ合わせて、八時間ほど寝かすだけでできる。


 作り方も材料もシンプルなので、味わいは麹が左右するというわけだ。


 新しく作った発酵器は、壁が分厚い木の密閉容器だ。

 ゴムで作った湯たんぽを入れて保温する。

 今度は井戸水から湧かしたお湯を調整して使っている。


 ただ、


「夕飯までには無理かな」


 ちょっとやるのが遅かった。

 できあがるのは、深夜近くになりそうだ。


「やりますが?」


「そこまでしなくていいよ。明日の朝にでも、飲んでみよう」


 顔を覗き込んでくるサイネリアにそう答えて、俺は甘酒を仕舞い込んだ。





 しかし、初めて作るものというのは、そわそわしてしまうからいけない。

 初めて使う発酵器で、初めて作る甘酒だ。

 朝には飲める、と千種に言ってしまった。


「……ちょっと様子だけ見ておこう」


 不安というより、単純にどうなってるかがちょっと見たい。

 うまくできていると嬉しいが。


 俺はベッドから起き上がって、甘酒の様子を見に行くことにした。


 置いてあるのは、飲食用の棟だ。そっと自分用の家屋を抜け出して、静かに厨房へと忍び入る。


 誰も起こさないように、そっと動く。灯りは蝋燭の小さいものだけ。自分の家の中だというのに、なぜか少し悪いことをしているような気分になった。不思議だ。

 しかし、後ろ暗いというより、ちょっと悪いことをして楽しんでいるような高揚感がある。


 女神様、お許しください。


 そんな感じで目的の物を前にした時に、先客がいたのは驚いた。


 厨房でかぱりと発酵器の蓋を開いてみたら、甘い香気がふわりと漂った。甘酒はしっかりとできている。


 ただ、量が少なくなっていた。


 妖精に取られたか、とも思ったけど、こういうものはその分を見越して作っている。


 首をかしげる俺の目の前を、小妖精ピクシーの淡い光が横切った。

 それを目で追うと、出入り口でふよふよと漂っている。


 出たい? いや、小妖精ピクシーは扉とか壁とかすり抜けてる。


 ついてこい、かな。


 外に出ると、月が煌々と輝いていた。

 俺は蝋燭の灯りを消した。小妖精ピクシーの仄かな光を見失わないように。


 月明かりを頼りに、妖精を追う。

 おとぎ話なら、子どもが遭遇するシチュエーションだ。そして森の中を迷い、妖精の家にたどり着くだろう。


 しかし、ここは俺が拓いた我が家のような拠点の中である。行き先は見当がついた。

 川の方だ。





 それは幻想的な姿だった。


 小妖精ピクシーたちが川面近くに漂いながら淡く明滅していて、蛍のように夜を彩る。

 その真ん中に、薄布一枚だけを纏ったミスティアが、川から突き出した岩に腰掛けている。


 ミスティアはいつもはまとめている長い髪を下ろし、肩から前へと流して櫛で梳いていた。

 月光を孕んで煌めく濡れた黄金の髪は、まるで金細工のドレスを纏っているかのように豪奢なようで、細密に波打つ様は絹のような繊細さも宿している。


 森の秘奥に住む幻想種。 月光に白くけぶる白い肌。非人間的なほど理想的な輪郭を描く横顔。

 一瞬、息をするのも忘れた。


 なにか、自分がひどく場違いなような気持ちになった。このまま立ち去ろうか──と、悩んだのもつかの間。


 大きな蒼い瞳が、こちらを向いて深く輝く。


「あら、ソウジロウ。もう気づかれちゃった?」


 さすがミスティアと言うべきか、俺の気配は察知済みだったようだ。


「ごめんねー、盗み食いみたいで」


「いや、それは構わないけど」


 近くに置いていたコップを持って謝るミスティア。

 先ほどささやかな悪事を楽しんでいたそわそわに、なんだか別の動悸も加わっているので良くない。


 これが因果応報か。


「こんな時間に水浴びって、なにかしてたのか?」


「うん。こっち来てみてください」


 わくわくした顔で言われては、まさかイヤとも言えない。

 靴を脱いで裾をまくり上げ、冷たい川に足を踏み入れる。


 冷水が足指の間を駆け抜ける感触を味わいながら歩み寄った。

 ミスティアが腰掛ける、小さな岩のスペースを半分空けてくれたので、ちょっと悩んだが隣に座る。


「ふっふっふ~、見ててね」


 ミスティアは一房だけ、編み込んでいた髪を手に取る。

 あまりにも自然な動作でするりとその一房を切り落としてしまったので、一瞬だが呆気に取られた。


 エルフの指先が手慣れた様子で動いて、編んだ髪をふわりと手のひらの上に浮かす。

 魔法陣の上で浮遊する髪紐は、月明かりの中できらきらとより一層輝きを放っていた。

 すぅ、と水面に溶け込むように、髪は消えてしまった。


 代わりに現れたのが、薄ら蒼く月光を反射する銀の糸。


「おお」


「びっくりした?」


 思わず声を上げた。手の中にある銀の糸を揺らして、ミスティアがちょっと得意げに訊いてくる。


「した。それに、綺麗だ」


 素直にうなずいた。


「そうでしょ。妖精銀ミスリルの弓弦はね、エルフにしか作れない至宝なんだから。これで引いた弓は、私を傷つけないのです」


 ミスティアは俺の顔を見て満足げにしている。

 なるほど、自分の文化で作るものを紹介してくれたらしい。俺もこの世界に来てから、よくやるやつだ。


「清らかな清流と、満月の月灯りと、精霊の力が強く満ちた場が必要だったの。……甘酒っていうのから、妖精の強い気配がしたのよね。力を借りちゃいました」


「それでつまみ食いを」


 どうやら甘酒はこのために使われたらしい。


「ちゃんと白状するつもりでした」


「いいよ。全員分あるし。味はどうだった?」


「美味しかったです」


「それは良かった」


「えっへっへ~」


 笑って肩を寄せてくるミスティア。

 あるいはミスティアも、つまみ食いにちょっと高揚感を覚えていたのかもしれない。


「あ、」


「あ」


 つい身じろぎしてしまった拍子に、俺はちょっと尻が滑った。

 小妖精ピクシーたちが静かに浮いている川辺で、ばしゃんと大きな水音が響いた。





「さすがに冷えるなー」


 深夜の川に頭まで沈んだ俺は、びしょ濡れになって川岸に上がった。

 ちょっと肌寒い。


「魔法で乾かすわよ? 脱いで脱いで」


 ミスティアが心配そうに言ってくれるが、今はちょっと遠慮したい。

 俺と同じようにしっとりしているミスティアから、目を逸らす。


「いや……いっそこのまま風呂に行くよ」


「そう? あ、それなら私も行こうかな」


 あっけらかんと言い放つエルフである。

 どこまでも試される夜だ。


「……サウナもするか」


 俺に必要なのは癒やしのデトックスかもしれない。

 そう思って何気なくつぶやくと、ミスティアは口元を押さえて俺を見た。


「そ、それは一緒に行けないからね」


 じわりと後ずさりしている。


「風呂は、行くのに……?」


 首をかしげる。と、ミスティアは顔を赤くして動揺していた。


「行きたいの? いや、でも、ちょっとまだ早いっていうか、私いきなりだと弱いから心の準備はすごくいっぱいしたい方で」


 照れてる?

 一緒に裸になって水浴びも風呂も気にしないで入るエルフが?


「そ、ソウジロウは平気なの?」


「え、いや、サウナくらいは……いや待った。なにか誤解がある気がする」


 ミスティアがびっくりした顔で俺を見ているので、慌てて会話のペースを落とす。


「どうしてサウナはダメなんだ?」


「だって……暗くて狭い密室で、裸で二人っきりなんて……恥ずかしいじゃない」


「恥ずかしい」


 恥ずかしい? えっ、今は?


 確かに、うちのサウナはフィンランド式で照明を絞っていて、かなり暗い。真っ暗な密室と言われれば、まあ遠くない。


 なぜ部屋だと恥ずかしいのか。

 いやしかし待った。恥ずかしさに、理由があるだろうか。


 たとえば箸の持ち方がおかしいと恥ずかしい、と言われることがある。その理由は? 突き詰めると、恥ずかしいから恥ずかしいのだ。


 ううむ。


 ぴんとこない俺に、ミスティアはなんだかものすごく唇をもにもにと動かしてから、ちょっと俯いて言った。


「……えっちだと思います」


 えっちだと思います。

 頭の中で、三回くらいリフレインした気がする。


 そうなのか……。


「お風呂は?」


「外だし、いいわよ。ソウジロウなら」


 確かに、うちの風呂は露天だ。


「……文化、だなあ」


 エルフの文化に、もう一つ思わぬところで触れてしまった気がする。


 満月の夜は魂が昂ぶるという。

 まあ、そういう日もあるのかもしれない。


 お風呂にしておこう。


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