自転車置き場の自転車

細波ゆらり

自転車置き場の自転車

 本屋の前で自転車を停める時、隣に停められた自転車の名前に気を取られた。


[望月馨]


 知っている名前でも、珍しい名前でもなかった。ただ、美しい字で書かれた名前だった。


 自転車の色や形は、中高生に人気のものだ。自分で書いたのだろうか。親が書いたのだろうか。


 町の小さな書店の店内はさほど広くはない。

 [望月馨]はどんな人なのだろう、という好奇心から、普段は素通りする雑誌売り場から、本を眺めるふりをして、ゆっくり歩く。


 サドルの高さから推測すると、書棚の高さから頭が出ているはずだ。男性ばかりだ。


 雑誌、単行本、文庫と順に歩いて回るが、それらしい人はいない。


 妄想はどんどん膨らむ。あんな美しい字で名前を書く、又は書いてもらえる人が、漫画コーナーにいたら興醒めだ。

 背の高い、眼鏡をした、賢そうな男子高校生を想像する。


 ニキビ面の高校生が関の山か、と考えながら、最後の参考書のコーナーを目指した。

 今日は数IIIの問題集を買うために来たのだ。


 近づくと、しゃがみ込んで参考書数冊を見比べている高校生が見えた。


「あ、すみません。」

 その人は、散らかった参考書を片付けながら、場所を空ける。


 妄想以上に爽やかな好青年だった。物語なら、ここで恋が始まるのに…と思いながら、目的の問題集を手に取った。


 すると、

「お、山崎!」

 と、背後から来た誰かが、望月馨に話しかけた。

 この好青年が、望月馨ではなくて残念、と思いながら、レジに向かう。


 店の外に出ると、山崎とその友人が自転車置き場で話し込んでいた。


 自転車を引き出そうと近づくと、山崎はこちらに軽く頭を下げて、[望月馨]の自転車を引き寄せる。


「今日、カノジョの自転車?」

「ああ、馨の自転車がパンクしたから、修理してきた。今から塾で交換する。」


 何も始まらない内に、失恋した気分になる。

 やみくもに恋敵の名を心の中で連呼した、この15分間の自分が滑稽だった。

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自転車置き場の自転車 細波ゆらり @yurarisazanami

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