第8話 Game over (?)
「はー、やれやれ……」
駅前のロータリーから線路沿いに山の方角へ向かい、住宅街を抜けた先の、マンションの居並ぶ区画。
近くの工場の独身寮などが目立ち始める区画に差し掛かった彦善のスマホに、一通のメールが届いた。
「あれ?」
戸惑いながらもスマホを手に取ったその瞬間、今度は通話の着信音が鳴った。
自動的に切り替わった画面には見知らぬ番号が表示されていたが、タイミング悪く彦善の指は応答ボタンを押してしまう。
「……はい、もしもし?」
しかたなく、電話に出る彦善。
「突然申し訳ありません、こちら外務省海外邦人安全課です。迦具夜 彦善さんのお電話に間違いありませんか?」
迷惑電話かとおもいきや、事務的な男性の声だった。
「え? あ、はい……がい……外務省?」
「外務省海外邦人安全課の、佐藤と申します。ご両親の貴彦さんと、善子さんについてご連絡が……」
唐突なその言葉に彦善は、ぞっ、と全身の血が冷えるような感覚に襲われる。
「両親に何かあったんですか!?」
「……申し上げにくいのですが、本日未明、ご両親及び医師団の方々がテロに巻き込まれ、行方不明となっております。そのため、連絡などが来ていないか……」
「ま、待ってください!」
慌てて、メールアプリを開く彦善。
祈るような気持ちで震える指を空中に浮かんだ画面に這わせるが、動揺のせいか、二度失敗した。
「……ん?」
が、しかし。
メールフォルダを見てみれば、普通に今日も、定時連絡のメールは届いている。しかも時刻は21時31分、ついさっきだ。
時刻からしても予約送信でもなさそうで、内容も砂漠を背景に中年の男女――彦善の両親が仲睦まじく肩を組んで笑う新しい写真が添付されている。
「あの……すいません、普通にさっき、いつもの連絡が来ていて……無事だと思いますけど……」
「えっ、そ、そうですか!? それは何よりでございますが……大変申し訳ございませんでした。再度確認して、ご連絡させていただこうかと……」
「あ、はい、お疲れ様です、よろしくお願いします……」
「それでは失礼致します、大変申し訳ございませんでした」
ぷつりと電話は切れ、アプリも自動で終了する。
「ふー、びっくりした……」
珍しいことでは、ない。
ただでさえ治安の悪い国で活動している以上こういった誤連絡は珍しくなく、過去には突然三ヶ月音信不通になり、過去には両親の親戚に引き取られたこともあった。
もちろん驚かないわけではないが、普段の慣れと覚悟から、彦善の精神はすぐに落ち着きを取り戻す。
「なんか今日は色々と起こるな……」
放課後に不良たちが現れてからというもの、UFOは撃墜され、駅前では事故が起こり、マルス教徒に絡まれ、誤情報に驚かされる。
厄日だなあ、などと思って、気晴らしに飲み物でも買おうとたばこ屋の前の自販機に近寄ったが……まだこの日の『厄』は、終わっていなかった。
「テメェ、ヒコヨシ!」
「は?」
タバコ屋の自販機の横の暗がりから、声がした。
「テメェ……俺ん
現れたのは、放課後にいた不良。『俺ん家』と言われ、面食らう。
「えっ、お前んちこのタバコ屋だったの? ……あーそっか、だからタバコ買えるのかお前ら」
考えてみれば今どきタバコなど、年齢証明が無ければまともに買えはしない。
なるほどねぇ、と納得したところで、不良の手には、釘を打ち付けた木製バット――通称釘バットがあった。
「テメエのせいでアイツらがパクられたんだ、オトシマエつけさせてもらうぞヒコヨシぃ!」
「だーからそれはお前らが悪いことを……ってちょっと待て、じゃあ何でお前だけがここにいるんだよ」
「クソ親父がいちいち揉み消すんだよ! 浮気相手のガキだろうが都合が……だぁああ! もういい、関係ねぇだろ!」
「マジで関係ねぇなー。でもなんかご愁傷さま」
どうやら何かと複雑なご家庭のようだったが、彦善には関係ないし、家を遊びで焼かれかけたホームレスにしてみれば、もっとどうでも良い事だろう。
しかしそんなことに関係なく、不良生徒は釘バットを投げ捨て、怒りに満ちた血走った目で彦善を睨む。
「はー、はぁ……」
「お前大丈夫か? 何で息切らして……」
「タバコが……もうねぇんだよ……」
「はぁ? タバコ?」
言いながら、唐突な発言の違和感に目をしかめる彦吉。
「タバコがねぇから……お、おま、お前の、せい、で……怖ぇよ、怖いんだよ、なんで俺が、なんで俺だけがこんなことになってんだよ……あ、あぁ寒い……」
不良は見開いた眼のまま、口の端からは泡が漏れ、身体は震え、口から出る言葉は意味不明。明らかに
「おい待てお前……まさか……」
「何でだよ……なんでお前そんなに大きくなってんだよぉ……」
――薬物。
嫌な予測が浮かび、ここへ来て初めて一歩、彦善は
『何か』――注射器からは、まるで答え合わせのように、何らかの液体がこぼれていた。
「ふざけんなよマジで……」
「フー……フー……」
彦善が悪態をつくが、相手の目の焦点は合わず、ゆるゆると歩き出す。
しかもよく見ればその手にはナイフが握られており、加速度的に彦善の危機感は増していく。既に起きてしまっている異常事態に、思考はフル回転していた。
(逃げ……いやこんなやつが大通りに行くのはマズい! って言うか、警察……交番なら駅にあるけど……バカか、んなことできるわけがないだろ! でもここだって住宅街だぞ!?)
不良は今は彦善にじりじりと迫るだけだが、いつ今この場の緊張の糸が切れるかはわからない。
「お、落ち着けって……」
「寒い……寒いよ……死にたくねぇ……」
逃げることすら
1秒1秒が彦善の精神を
――ワンワンワンワンワンワン!
けたたましい犬の鳴き声が、スタートダッシュの合図になった。
「こら、トム! そっちじゃ……え?」
振り返り、駆け出した彦善の前方の十字路には、大型犬のリードを引く女性。しかもそれは、
「梓さん!?」
近所に住む、喫茶店の新入り店員、梓だった。
「ヒコヨシくん!? な、な、何……」
突然現れた知り合いに驚く梓だったが、その知り合いが全力で自分の方へ走ってくるという状況が飲み込めないのか、そのまま立ち尽くしていた。
「通り魔です逃げて!」
「と、通り、え?」
叫ぶが、通じず、既に始まってしまった命懸けの逃走劇。このまま彼女を無視して前進すれば、最悪の事態が起こることは容易に想像がついた。
「っ! トム!」
電撃の速度で思考が奔って、彦善は手に持ったスマホを左斜め45度の方向へ放り投げる。
「取ってこい!」
「ワン!」
「あー!」
リードを振り切って、大型犬・トムは走り出した。反射的にそれを追った梓は彦善から見て左の道へ駆け出す。
それを見届けた彦善はそのまま直進して、
「かかって来いよイカレ野郎!」
大声で煽った。
「アアアアアア!!」
その声と騒ぎに近隣の住宅の明かりが灯り、ようやく梓も事態をある程度把握した。そしてトムが咥えていた彦善のスマホを受け取ると、
「あっ、あ、け、けーさつ、通報!」
パニックになった頭で、110番通報しようと画面をタップした。
しかし放り投げられた衝撃でバキバキに割れた電子端末は、梓がタップしてもろくに動かない。それでも明滅するロック画面に数字が浮かぶが、
「ろ、ロック番号!? ってなんだっけ……!?」
そんな風に焦った彼女が自分のスマホで通報すれば良いと気づいたのは、それから一分後のことだった。
――一方その頃、彦善はというと。
(絶対、厄日だ……!)
舗装されていない山道を、ひたすらに走っていた。
「ヒコヨシイイイイイイ!」
『天星神社登山道・頂上まで20分、走れば10分! 最後の石段は555段あるよ!』
とアニメ的な巫女さんの絵の吹き出しに書かれた文言を尻目に、追われる者と追う者の足は止まらない。
満月と最低限の街灯が幸いしてどうにか視界はあるが、両者の残り体力は明らかに差が出ていた。
「はっ、はあっ……」
薬物で脳のリミッターが外れた不良と、ここまで神経を擦り減らして逃げ込んだ彦善。息切れや足音のせいで振り切ることもできず、ついに二人は坂道を登りきり、神社の石段の下に辿り着いた。
ナイフを容赦なく振るう不良から命懸けで逃げ惑ってはいるものの、彦善の体力は限界に近い。
(……こう、なったら……!)
石段を無視すれば、その先は隣町。
しかし、彦善が選んだのは石段の上、社の方向だった。
「こっ、ちだ……! 来いよクソ野郎!」
「アぁ……!」
境内に転がり込むようにして石段を上りきり、振り返って、目の前には今まさに自分を殺そうとする
「あぎっ……!」
肉の中に刃が潜り込む感覚が脳を襲う。
だがそれは同時に、彦善が目論見を切り替えた瞬間だった。
「あ……」
刺されながらも跳躍した彦善の身体が不良の身体と衝突して、その勢いのまま二人は石段の上の中空に投げ出された。
「ひっ」
たった一度の、命懸けの反撃。
息を吸う音がして、2つの肉体が石段を容赦なく転がり落ちていく。
(あ――)
彦善の身体を襲う落下の痛みと、加速する体。気を失う度に痛みで覚醒し、覚醒の度に痛みで気を失う。そこでおよそ思考と呼べるものは不可能だった。
そしてついに、ごしゃっ、と人が石段を落下するにはあまりにも嫌な音がして、もつれ合った2つの体が、百段下の中継地点でばたりと止まる。
「ぉ……」
僅かな間を開けて、不良の身体が手を地面に付き、うつ伏せの状態から身を起こそうとしていた。
「……ぁ」
が、ごつっ、と音がして、またうつ伏せに倒れ伏す。その脳天からは大量の血が流れ、静かに石畳を染めていった。
「……っ」
そしてその傍らで、仰向けの彦善の身体がかすかに
打ちどころが悪かったのか、全力疾走が無茶だったのか……口の端から溢れ出る
(無、事、かな……これで……誰も……)
ごぽごぽと温かいものが彦善の胃から口へと溢れ、頭からの血が目にかかる。それに抗う力は欠片ほども湧かず、心臓だけがびくびくと跳ねるように動いて、急速に手足が冷えていく感覚。
(ここで……死ぬ……のかな……)
当然誰からも、答えなどない。
助けを呼ぼうにもスマホは手元になく、あったところで言葉一つ出せないだろう。
――でも、こうするしか、なかった。だったら。
(これで、良かったんだよな……)
そう自分に言い聞かせるように悟った瞬間、彦善の視界に、誰かが映る。
「――」
それは白い髪の、見たこともない、笑顔の少女。
ひょこっ、と現れたその少女は、まるでお菓子でも見つけたような、あまりにも明るい笑顔で彦善を見て……
(しに……が……み?)
……そこで、彦善の意識は闇に落ちた。
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