第5章-14

「いや……いやです」

 シャラは笑みを浮かべるエージャに、拒絶の言葉を突き付けた。

「どうして? スーティー家に行ければよくしてもらえるわよ? 毎日違う服を着て、美味しいものを食べて――」

「わたし、貧乏でも今の暮らしが好きです!」

 心底恐ろしくなって、シャラは、ちら、と水面に目をやった。

 氷が浮いている。

 きっと、冷たい。

 だが大運河よりは何十倍も岸が近い。

 逃げ出すなら、今のうちだ。

 行くしかない。

 意を決して、水の中に飛び込んだ。

「――シャラ!」

 水しぶきが上がったとき、自分を呼ぶ声を聞いた。

 聞き覚えのある――愛おしい声。

 しかし二度同じ声を聞こうとすると、途端に酷く耳が痛んだ。

 耳だけではない。手も、足も、顔も、首も、切れるような冷たさに襲われる。

 胸のあたりが圧迫されるような感じがし、身体が縮むような気がして、たちまち全身が苦しくなる。

 氷のかけらが残る水は、意外に泥っぽくまとわりついてきた。

「シャラ!」

 再び声がして、薄眼を開けたシャラの前に手の平が見えた。

 シャラは懸命にもがいた。

 スカートが絡む足をいっぱいに蹴りだし、めいっぱい腕を伸ばし、きっと自分を救ってくれるその手の平を、全力で目指した。

 そしてある瞬間強い力に腕を引かれたとき、

「――シャラ、大丈夫か」

 シャラは陸に引き上げられていた。

 手を握っていたのは、ソーレイだ。

「ソーレイ君……」

「ごめん。俺、守るって言ったのに」

 ソーレイは自らのコートをシャラに着せ、小さな身体を抱きしめた。

「大丈夫、だよ。助けてくれたもん。ソーレイ君……」

 シャラは無理に笑おうとした。

 しかし顔が引きつってうまくいかない。

 奥歯もしきりにカチカチいうし、指先も震える。

 水の中にいたのはほんの短い間なのに、もう芯から冷え切っていた。

 ソーレイが、シャラを横抱きにして立ちあがった。

「シャラ、帰ろ。身体をあたためないと」

「……でも、エージャさんが……」

 シャラは水路の先を見る。

 すでにずいぶん遠くなった舟。

「大丈夫、この先で待ってるやつがいるから」

 ソーレイはそう言って、シャラを抱いたまま歩き出した。

 その格好はひどく恥ずかしかったけれど、下ろしてもらっても自分で歩ける気がせず、シャラは静かにソーレイの胸に頬を寄せる。

 もう一度だけ振り返って、舟の上の女性を見た。

 エージャは、前しか見ていなかった。



 がこん、と、舟の縁が対岸にぶつかったとき、エージャは我に返った。

「――しっかりしないと本当に大運河に出るよ。キミ、死にたいの?」

 エージャは長い竿のようなものを脇に放る事務官を見、急にぶるぶると震え始めた。

「ガッタ……私……」

「キミにミノリハを飲ませといた。よく効いてたみたいだね。ろくな工作もせずにシャラを連れて外に出て、『運河の向こうに家がある』って考えだけで舟に乗っちゃうんだから。ああ、言っておくけど公女はすでに全部お見通しだよ。ひどくご立腹だ」

 公女の名を出した途端、びくとエージャの肩が揺れた。

 彼女の目が何かを恐れるように虚空をさまよう。

「私……スーティー家に、帰らなきゃ……」

「帰るなら帰ってかまわない。ただ向こうはキミを受け入れないよ。キミは任務を失敗したんだ。帰っても消されるだけ」

「うそ……うそよ。私、ロッドバルクの公子を蹴落としたわ。ちゃんと約束を守ったの。戸籍に入れてもらえるのよ。やっと本当の家族になれるの」

「馬鹿だな。たった一枚の紙切れに名前を書いてもらって、それで満足なのかい。キミくらい魅力的な女性なら、本物の家族にしてくれる男くらいいくらでもいるのに」

 やや乱暴な手つきで舟から引き降ろされ、石で作られた堤防に座りこんだエージャ。

 涙目で、ガッタを見上げた。

「……あなたは、してくれないくせに」

「ああ、しないよ」

 顔も見ずにガッタは言い、無人の舟を蹴った。

 すうと水面を滑る、三日月形の舟。

「……私のこと、好きじゃなかった……?」

「……嫌いじゃなかったね、少なくとも昨日までは」

 そこでようやく、彼はエージャの顔を見た。

 甘ったるい顔立ちには少しの表情もない。

「嫌いじゃなかったから――見逃してあげるよ。どこへでも行くといい。でも僕の前にも、公女の前にも、二度と姿を見せないでね」

 くるりと、事務官は背を向けた。

 そしてエージャが嗚咽を漏らし始めても一度として振り返らず、彼はひたすら、屋敷の方角へと歩いたのだった。

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