第6話 よくぞここまで来たな

「息子よ、よくぞここまで来たな。お前ならきっと来るはずだと信じていた」


 黒衣に身を包んだ父さんは回転椅子から立ちあがり、まっすぐにおれを見て言った。


「なにが“息子よ”だ。世界を救えっていうからここまで踏ん張ってきたのに、滅亡の危機に追いやってたのは父さんじゃないか!」


「でも虹治、人類滅亡がイコール世界滅亡ではないぞ。むしろ、ほかの生き物たちにとっては人類なんていない方が平和かもしれないじゃないか」


「そんな説教、父さんにだけはされたくない」


「だってしょうがないじゃん、趣味だもの」


 広いのを通り越して巨大なこの部屋の壁は、扉や窓の一部を残し、床から天井まで昆虫の標本で埋まっていた。大きさも色も種類も光沢もさまざまな虫たちが箱の中にピンで留められ、整然と並んでいた。今まで特に虫が苦手と感じたことはなかったけど、さすがに背筋が寒くなった。


「俺の夢は、世界中の昆虫の標本をつくることなんだ。だが狭山家にはあんな呪いが残っていたから実現は不可能だとわかっていた。子どもの頃は心底ご先祖様を恨んだものさ。それでも買ってきた標本セットや図鑑を見て楽しんでいるうちはまだよかったんだ。結婚して母さんが大のつく虫嫌いだと知って、全部封印しなくちゃならなくなってな。でないと別れるっていうから」


「でも結局、こうして趣味を選んだんだろ?」


「それは……母さんに見捨てられたからさ」


 おれは耳を疑った。


 結婚指輪が指に入らなくなってしまったからとわざわざネックレスに通して肌身はなさず、父さんが喜ぶからと休日はいつも髪をくるくる巻いている、あの母さんが?


「母さんがいつ、そんなこと言ったんだよ」


「口で言われたわけじゃないさ。ただ、急に態度が冷たくなったんだ。前は遅く帰ってきても晩ご飯のときはいっしょにいてくれたのに、さっさと寝室に引っ込んでしまうし、せっかくの休みだからハイキングにでも行こうと誘っても断られるし、機嫌をとろうして高いバッグを買っても、無駄遣いするなって怒られるし。おまけに……」


「まだあるの?」


「髪を明るく染めていただろう? きっと若くてたくましい男とつき合っているんだよ! そういう雑誌よくリビングのテーブルにおいてあるし……」


「あ、それは姉ちゃんだな」


 ちなみに、髪色が明るくなったのは白髪を目立たなくするためだろうと姉ちゃんがこっそり教えてくれた。


「とにかく、母さんのいない世界なんて意味ないんだ! だったらもういっそ自分の野望を叶えてやろうと思ってな」


「おかげで人類は滅亡の危機に陥ってるけど」


「そこはそれ、お前にすべてを託したじゃないか。(父さんの夢を実現するために)世界を救えって」


「大事なところをかっこに入れるな!!」


「虹治、しばらく見ないうちに突っこみが鋭くなったな」


「誰のせいだ、誰の」


 頭がくらくらしてきた。夫婦ゲンカで息子と世間にどれだけ迷惑をかけるつもりなんだ。


「きっかけは何にしろ、ここまで問題が大きくなっちゃ見過ごすわけにはいかない」


 落ちつくために深呼吸。大丈夫、ここに来るまでに何度もシミュレーションしてきた。


「もし、父さんがすっぱり心を入れかえるっていうんなら、なかったことにはできなくても、世の中が元通りになるよう精いっぱい力を貸すよ。でもこのまま暴挙を続ける気なら……息子として全力で阻止する!」


 期待を込めて親父を見る。大丈夫、父さんならわかってくれるはず。


 けれど、父さんは寂しそうに笑った。


「悪いな虹治。もう話は父さんだけの意思じゃどうにもならないんだ。父さんの呼びかけに応じた昆虫愛好家たちが集まって、大規模な標本づくりのプロジェクトは始まった。彼らは狭山家の特殊な事情も知っている。そのうえで、計画を進めてきたんだ。今さら後戻りなんて……」


「なに言ってんだ! この要塞に正気なやつなんてひとりもいなかったよ! とっくに虫たちの呪いの餌食になってるよ!」


「あ、そうなんだ。じゃあもう終わりだな」


 拍子抜けするほどあっさりとした反応だったので、勢いあまって転びそうになった。


「もうちょっと抗ってよ、やりづらいじゃん」


 父さんは面目ないというようにあごをかいた。


「だってなあ、正直ここまで大ごとにするつもりはなかったかけれど、もう取り返しがつかないし。責任をとらないと」


「責任?……」


 父さんはふところから注射器を取り出した。


「な、なんだよそれ」


「アンモニア水だ。これで昆虫をたくさん殺してきた。少しは虫たちの怨念も晴れるだろう」


「知らねえよそんなこと! どれだけ年月がかかってもいいからさ、おれたちと一緒に人類を救っていこう! それこそが償いだって」


「止めてくれてありがとう虹治。父さんはお前をずっと愛している」


 注射器の針が西日を受けて銀色に光った。


 父さんの腕の血管に光が迫る。

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