ちょっとハエ叩きで人類救ってくる

文月みつか

第1話 どうしたのその頭?

 その生き物が最初に現れたのは、5月の初めのことだった。


「母さん、どうしたのその頭?」


「ああ、気づいた? いつもよりワントーン明るい色に染めたのよ」


「いや、そうじゃなくて……」


「あんたがそんなことに気づくなんて珍しいね。日南ひなならともかく」


「そうじゃなくてさ、姉ちゃんじゃなくても突っこまずにはいられないと思うよ。その、頭の上にいる虫みたいなの……」


 おれは母さんの頭に肘をついて寝そべっているおかしなぬいぐるみを指さした。それは手足が6本あり、背中にハエみたいな羽があり、額の上から角みたいな触覚みたいなものが2本生えていて、人間みたいにリアルな顔を持っていた。そう、顔だ! 切れ長の目、少し低い上向きの鼻、薄い唇の中年男の顔。


 まあとにかく、一言でいうととってもキモかった。


「やだ、早くとってよ! どこどこ?」


「そんな探し回らなくても、でっかいのが乗ってるじゃん」


「母さんが虫ダメなの知ってるでしょ! あんたが取りなさい!!」


 いい歳して子どもっぽいこという母さんの頭から手で振り払おうとすると、それはササッと素早く後頭部に回って避けた。なにこれ、動くの?


「ねえ、取れた?」


 虫が移動したことに母さんが気づいていないのはもっと驚きだった。前髪をつるつるなでて確かめている。


「ちょっと待って、後ろに……あ、今度はてっぺんに……」


「早くして!!」


 つかもうとするたび、虫はちょこまかと逃げ回った。


「うわ、母さんここらへん染め残しが……」


「なんですって!?……あんたさっきからふざけてんでしょ? なんかおかしいと思ったわ。親をからかうもんじゃありません!」


 母さんはぷりぷりと怒って、へんてこな虫を乗せたまま台所に行ってしまった。やつは最後にちらっとこっちを見て、ほくそえんだ。あんな気持ち悪いもんと一緒で平気なんて、母さんもいよいよぶりっ子を卒業するところなのかもしれない。




 リビングのソファーに寝転がってテレビを見ていると、学校帰りの姉ちゃんが「ちょーのど渇いたー」とテレビの前を横切った。おれが体を起こさないまま「おかえりー」といったのを軽く無視して、姉ちゃんは冷凍庫からアイスを取り出してケツで閉め、「だるーい」とテレビの前に立ちはだかる。


「だるいなら座ればいいんじゃないですかー?」


「あんたがソファーを独占してるから座れないんですー」


「テーブルの椅子使えばいいじゃん」


「うるさいわね、受験生の姉ちゃんはあんたと違って大変なのよ。ちょっとはいたわって場所をゆずりなさい!」


「へいへい」


 最近なにかとこれだ。受験生だから気遣え、お茶入れろ、プリンよこせ云々。今は中二で気楽な身分のはずなのに、姉ちゃんのおかげで少なからず損してる。来年はとことんお返ししてやらないと。


「あーよっこいしょ」


 半分ゆずったスペースに姉ちゃんがどっかり腰を下ろす。さぞババくさい顔してんだろなーと思って見たら、もっと別のものが目に飛び込んできてぎょっとした。


「それ、その頭……どうしたの?」


「ああこれ? 友だちがくれたの。かわいいでしょう?」


「いや、ヘアピンの話じゃなくてさ……」


 おれがいいたかったのは、姉ちゃんの頭であぐらをかいている妙ちくりんな虫のことだった。さっき母さんが乗っけてたやつはハエっぽかったけど、こっちはバッタのように見える。顔に関してはもっと面長で眉が濃かった。さっきのがしょうゆ顔なら、こっちはソース顔かな……んなことどうでもいいか。


「母さんも似たようなのつけてたけど、それ流行ってんの? 俺はどうかと思うなー」


 近頃はよくわからないものが流行ったりするけどさ。


「うっそー母さんとおそろい? 地味にショック」


 姉ちゃんが星型のヘアピンを取ろうとして床に落っことす。それを拾おうとかがんでいるあいだも、人面バッタは髪の毛にがっしりしがみついて離れない。


「気分台無し! もう部屋ひっこむわ。これ、あんたにあげる」


 そういってヘアピンをソファーに置き去り、アイスをくわえて出て行った。人面バッタも当たり前のように頭に乗ってたけど、姉ちゃんは気にする様子もない。


「いやー、あれはないわ。ないないててっ」


 もう一度ソファーに横になったら、太ももにピンがささって痛い思いをした。

 ……ったく、こんなものもらっても使い道ないっつーの。




 それから数日が経っても、母さんと姉ちゃんは頭に人面虫を乗っけたままだった。食べる時も寝る時も。家の中ならまだいい。あのままスーパーや学校に出かけちゃうんだから、こっちが恥ずかしくなる。友だちからもそのうちいじられるんじゃないかと、びくびくしていた。けど、違った。


「よう狭山さやま。今朝は早いな」


「おは……ど、どうしたんだよその頭」


「どうって、いつもどおり寝癖直しのワックス使ってっけど?」


「そんなん使う前と大して変わんないだろ? そうじゃなくてさ、その、頭の……」


 浩紀の逆立った固い髪の上に、人面トンボが乗っていた。こいつのは頬骨が出っ張っていて、歯並びがよかった……いやそんなことは問題じゃない。急に不安になって周辺の廊下を見回した。


 下駄箱の近くに女子が数人たまっている。頭には、コオロギ。

 なぜか窓から靴を持って入ってきた男子の頭に、セミ。

 「おはよう」と明るく声をかける先生の頭に、カマキリ。


「……おかしいのはおれの目か?」


「そうだな。行こうぜ」


 それからは、教室に行っても、職員室に行っても、放課後道を歩いていても、気味悪い虫を頭に乗せた人たちだらけだった。走って家に帰ったけど、待ってるのはやっぱりおかしな頭の母さんと姉ちゃん。


「みんなどうしたって言うんだよ! おれにも説明してくれ!」


 そう言ってみてもふたりともぽかんとするだけだった。

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