Dの本

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Dの本

 喧騒がウソのように遠く感じる通りに、その本屋はあった。

 古びた二階建ての木造建築で、一階部分の店舗部分からは、橙色をした光が洩れている。

 その店の前に、一人の男が立っていた。

 年の頃なら30代後半くらい。 男はジーンズを穿き、上はシャツ一枚というラフな格好をしている。

 男の名前を、小橋こばしつよしといった。

 彼の視線の先には、店の入口がある。

 しかし彼はそこから中に入るわけでもなければ、何かをするわけでもない。

 ただじっと佇みながら、時折ため息をつくだけだったが、意を決して店内に入った。

 天井からは裸電球がいくつかぶら下がっており、頼りなく光っている。

 壁際には棚が並んでおり、そこに様々な本が並べられていた。

 ジャンルもバラバラで小説もあれば漫画もある。

 奥に行くと、一人の女性がレジスターの所に座っていた。

 ドレッシーな黒いワンピースに、黒のカーディガンをコーディネイトした20代の若い女性だ。

 丸形をしたメガネをかけ、フレームにはネックチェーンが付いている。必要に応じて遠近を使い分けているところを見ると、遠視かも知れない。

 メガネをかけてはいたが、きついイメージや顔の輪郭のズレによる違和感はない。知的な印象に色香がからみ、教育者のような威風を持った女性であった。

 名前を長瀬ながせ摩耶まやという。

 彼女は剛に向かって言った。

「こんにちは」

 挨拶されたのだから、こちらも返さなければいけないだろう。

 そう思いながらも剛は何も言わず、軽く会釈するだけに留まった。

 そのまま足を進めてレジへと向かう。

 摩耶は彼が近づいてくるまで黙って待っていた。

 そして彼の手がレジ台に置かれたところで口を開く。

「本を貸しくれ」

 剛の声を聞いて、摩耶は驚いた顔をしなかった。

「良いですよ。うちは古書店ですが、昨今の住宅事情から販売だけでなく貸本も行っているんです。何をお探しですか?」

 摩耶の言葉を聞き、剛は少し考える素振りを見せたあと、ゆっくりと話し始めた。

 それはまるで自分に言い聞かせるような口調である。

「噂に聞いた。『Dの本』を探している」

 この一言だけで、彼女は全てを理解したようだった。

 目を閉じ、静かにうなずく。

 それから摩耶は、カウンターの下に置いてあるノートパソコンを操作し始めた。

 しばらくするとディスプレイ上に、本のリストが表示される。

 そこには著者名やタイトルの他に、貸出期限などが記載されていた。

「ありますよ。こちらの用紙に名前、住所、連絡先を記入し住所確認ができる物を出して下さい」

 そう言って摩耶は、奥に姿を消す。

 その間、剛は用紙に個人情報を記載し、免許証を出す。手持ち無沙汰になった剛は何気なしに店内を見回していた。

 客はいない。

 店内にいるのは彼だけだ。

 静けさが妙に重く感じられる。

 しかし、それは長く続かなかった。

 再び摩耶が戻ってきたからだ。

 手には一冊のハードカバーの本を持っている。それをカウンターの上に置くと、摩耶は再び口を開いた。

 どこか楽しげな声音で話す。

 それはまるで独り言のように聞こえた。

「さあ。お客さまですよ」

 摩耶の視線が、目の前に立つ剛に向けられることはない。

 その瞳は本に注がれていた。

 まるで自分の中の誰かと話しているかのように見える。しばらくしてようやく摩耶は視線を戻し、剛を見た。

 そして言う。

「これは特別な本。あなたの求める答えが載っています。期限は一週間だけ。絶対に借りパクしないで下さいね」

 冗談めかして笑う摩耶につられ、剛も小さく笑った。

「貸本代は30万。それでも、よろしいでしょうか?」

 剛は迷わずうなずき、金の入った封筒をカウンターに置く。摩耶は銀行員並の手つきで紙幣を数えると、「確かに」と言い、摩耶は用紙の個人情報を確認してからパソコンを操作する。

 程なくして貸し出し処理が終わったらしく、カウンターの上に本が置かれた。

 剛は、本を両手で受け取る。

 本を受け取った瞬間、視界が大きく歪む。

 思わず膝を突きそうになったところを、なんとか堪えた。

 それはまさしく自分が探しているものだったのだ。

 剛は本を開く。

 ページはどこも白く、一字も書かいてない。

 だが剛は、答えを探すようにページを捲り続けていく。

 すると、やがて文字が書かれたページが現れた。

 彼は目を大きく見開き、それを凝視する。

 口元に笑みが浮かぶ。

「そうか。そういうことか……」

 彼は満足げにつぶやくと、本を閉じると逃げるようにして店を後にした。

 店内には摩耶が一人残された。

 誰もいない店内で、摩耶はぽつりと呟く。

「まいどあり」

 その顔に表情はなく、無機質な声でただそれだけを口にする。

 

 ◆


 剛はパチンコを打っていた。

 午後からずっと打ち続けているが、凄まじい当たりだ。

 既にドル箱が13箱重ねられている。

 周囲の目など気にせず、豪快に玉を打ち続けていた。

 もうかれこれ3時間ほど経っているだろうか。

 そろそろ出なくなる頃合いだろうと思った矢先に大当たりを引いた。

 大フィーバーし、奇声を張り上げながらハンドルを回す。

 液晶画面には、大きな当たりを示す数字が表示されており、それが次々と増えていっていた。周りの人間たちは呆然とその様子を眺めている。

 店員も例外ではなく、口をあんぐり開けていた。

 そんな周囲の様子を全く意に介さず、剛はひたすらに大当たりを引き続ける。

 パチンコで換金を済ませた剛は20万ほどの現金を手にしていた。

 彼の顔には狂気にも似た笑顔が貼り付いている。

 まるで別人のようだ。

 次の日も、剛はパチンコで荒稼ぎをしていた。

 それも当然だ。

 なぜなら今日は、新台の入れ替え初日なのだから。

 剛は開店と同時に店に入り、台を確保することに成功した。

 それからは、閉店まで一度も席を離れることなく、大当たりを出し続けた。

 彼は終始ご機嫌であり、時折、意味不明なことを口走っている。

 しかし、それを咎める者はいなかった。

 むしろ彼を応援さえしている者がいるくらいだ。

 大金を得た剛は豪遊を繰り返す。

 高級キャバクラで酒を飲んだ後、風俗店で性欲を満たした。

 その後もギャンブルで負けることがなく、稼いだ金を全て使い切ってしまった。

 使い切っても問題ない。

 パチンコで稼げば良いのだ。

 剛は『Dの本』を捲り、答えを探す。今日も答えが書いてあった。

 明日も同じことを繰り返し、さらに金を増やす。

 この調子なら一生働かなくても暮らせるだろう。

 会社を休み始めて一週間が経過していた。

 剛の頭からは仕事のことは完全に消えている。

 もはや働く必要がなかったからだ。

 朝起きてから夜寝るまで、全てパチンコに費やす日々。

 毎日、大勝ちを続け、剛の懐は温まりっぱなしであった。

 そんなある日、いつものようにホールへ向かう途中のことである。

 パチンコ屋街に行く細い路地に、一人の女性が立っていた。

 摩耶だ。

 彼女は腕を組み、とがめるような視線で剛のことを見ている。

 剛は彼女の存在に気づくと、足を止め、面倒臭そうにため息をつく。

 それから彼女を無視して歩き始めた。

 すれ違った所で、摩耶は静かに口を開く。

 まるで感情のこもっていない声音だった。

 淡々とした口調で彼女は言う。

「お忘れですか。期限を過ぎていらしゃいますよ」

 その言葉を聞いた瞬間、剛の心臓は大きく跳ね上がった。

 摩耶の言葉が脳内で何度も繰り返される。

 剛は慌てて振り返ると、摩耶に高圧的に口を利く。

「期限? 何の話をしている」

 それは完全に上から目線だった。

 しかし、その態度とは裏腹に、剛の額には汗が滲んでいる。

 まるで油の切れたロボットのような動きで振り向く。

 するとそこには変わらず摩耶の姿があった。

 まるで幽霊のような静けさと、湖面に潜むような冷たさを湛えた双眼でこちらを見つめていた。

 剛の顔から血の気が引いて行く。

 全身から冷や汗が流れ落ちていた。

 それでも剛は強がるように言う。

 カバンに入れていた『Dの本』を取り出す。

「俺は30万も出しているんだ。この本は俺の所有物だろ?」

 声が震えていた。

 それでも虚勢を張るように胸を張っていた。

 摩耶は剛の質問に答える。

 抑揚のない声で言った。まるで機械音声のように聞こえる。

「言ったはずですよ。絶対に借りパクしないで下さいね。と」

 摩耶は、ゆっくりと口を開いた。

 どこか憐れむように言う。

 すると剛が持っていた本が勝手に開いた。

 突風にさらされたかのようにページが勢いよく次々と捲れる。

 やがてページが止まり、真っ白なページが現れた。

 剛が目を大きく見開くと、摩耶は口元に笑みを浮かべる。

 そして口を開き、こう告げた。

「お客さまは、すでに答えを見つけましたね」

 その瞬間、剛は理解した。

 自分が間違えていたことを。

 同時に激しい後悔が襲ってくる。

 だがもう遅い。

 全てが手遅れなのだ。

 本の縁に雨後のたけのこの如く、牙が生えてくる。

 まるで本自体が生き物であるかのような錯覚を覚えた。ページの一枚は赤く変色し、唾液を滴らせる舌へと変わる。

 本は、そのまま剛に襲いかかった。

 剛は咄嵯に避けようとするが、間に合わない。

 本は剛の顔に、悲鳴ごと喰らいつく。

 本の牙が剛の顔面に突き刺さり、肉を裂き、骨を削ぐ。

 顔の半分が食いちぎられ、剛は絶命する。

 本は飢餓感を満たすように剛を喰う。まるでワニが動物を食べるように豪快に喰っていく。貪るように。

 顔だけでなく、体もバラバラにして喰って飲み込む。

 満足げに咀しゃく音を鳴らしながら、一人の人間が、その場から姿を消した。

 本は喰い終わると、その場に回転しながら落ちる。

 その瞬間を摩耶は拾い上げる。

「だから忠告したのに……」

 摩耶は呆れた表情を浮かべた。


【本に化けた悪魔】

 世には「魔導書」と呼ばれるものがある。

 神秘的な魔術の実践法や、召喚の呪文が書かれていて、それを手に入れると悪魔を呼び出すことができる。

 この手の本はヨーロッパに、その多くが、中世や近世に作られている。

 人は悪魔を呼び出し、若さ、知識、富、名声、権力などの欲望を、魂を代償に行うが、悪魔の中には本に化けて人間と取引を行った。

 その本には未来のことが書かれてあり、金もうけができたり、災難から逃れられたりする。

 そのかわり読むためには何か生贄を捧げなくてはならない。

 最初は小さな犠牲から始まるが、やがては精神が本の悪魔に支配され、ついには家族までを生贄にしてしまうという。


「『Dの本』のDとは、Demon(悪魔)のD。あなたの望む未来を叶えるために、本はあなたをそそのかすでしょう。でも、その代償は決して安くはない……」

 摩耶の呟きを聞く者は誰もいなかった。

 それから、すぐに元の無表情に戻ると、踵を返して立ち去る。

 彼女が去った後には、血痕だけが残されていた。

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