小さな歌声

ミドリ

第1話 出会い

 朝の満員電車。


 隆史たかしは、無言のまま後から乗ってくる乗客に背中を押されていた。次の駅で降りるというのに、座席がある通路側へと押しやられている。


 ――これじゃ、降りられるのかな。


 あまりの混雑ぶりに、さすがに不安になった。だからといって、頑なにドア付近に居続けると睨まれる。でも、降りるのは大変そうだ。車両の中の方は、ドア付近よりは空いている。だったらもう後は着いたら全力で出ればいいかと諦め、空いているつり革を探した。


 ――あった。あったが、そこだけ異様に空間が空いている。


 酔っぱらいが寝ているのかな、と時折見かける光景を脳裏に思い浮かべた。夜の仕事の格好をした人や、酒に慣れていなそうな学生などが、いつから乗っているのか通勤電車の座席で延々寝続けていることは、ままある。それと同じ様なパターンだろう。


 隆史は一瞬どうしようかと迷ったが、ドン、と背中を押されてしまい、仕方なく更に奥に足を踏み入れた。


 ドア付近にいると、掴まる場所がなくて両手を上げることが出来ない。間違っても痴漢になんて間違われたくなかった隆史は、両手でつり革を掴まる方を選択した。


 そもそも女になんて一切興味がないのに、痴漢の冤罪を掛けられるなんて冗談じゃなかった。


 社会人になって三年、会社ではゲイだとバレていない。なのに通勤中に痴漢の冤罪なんて掛けられたら、「自分はゲイなので女に興味ありません」という言い訳をするしか思いつかない。


 警察に捕まれば、どうしたって会社にも連絡がいくだろう。そうしたら即バレだ。


 人数が少ない会社だけに、アットホームな雰囲気がある会社だが、その分異端扱いされると辛い環境でもある。折角仕事が楽しくなってきた時期なのに、こんなことで辞めたくはない。だったら中へ行こう。


 そんなことを僅かな間に考えた隆史は、「すいません」と小さく断りながら、空いたつり革へと歩を進めていく。


 すると、聞こえてきたのはごく微かな歌声だった。


 一体誰が電車内で歌なんて歌ってるんだ、と思わず目を瞠り音源を探す。


 いた。蚊の鳴くような小さな掠れ声でどこかで聞いたことがある様な歌を歌っていたのは、ぽっかりと空いた空間の中央、座席に座るひとりの男だった。


 一瞬どっちかなと思ったけど、着ているロンTの胸の部分が真っ平らで、履いているピタッとしたデニムの股間部分がちゃんと盛り上がっているので、男だと分かる。


 足を投げ出したりしている様子もないし、歌ってはいるがたかがひと駅だ。隆史は男の前に立つと、つり革を掴んだ。


 マスクをしているので本当にこの男が歌ってるのかなと疑ったが、歌に合わせてマスクが微妙に動いているのでこの男で間違いないだろう。少し長めの黒い前髪に目が隠れている。物凄く整った顔立ちという訳ではないが、儚げな雰囲気が気になり、不躾かなとは思ったがジロジロと男を見てしまった。


 それにしても、なんで歌っているんだろう。やっぱり酔っぱらいかと思ったが、陶器の様に滑らかな白い肌を見る限り、酒が入っている様には見えない。


 こんなにも見られているのに、男のちょっと大きめの目は、隆史が目の前に立っても微動だにしなかった。


 発車ベルが鳴り、ドアが閉まる。ドアに押された人の波の余波がこちらまで届き、隆史の足が男の足の間に入ってしまった。


「あっすみません」


 思わず謝ると、男が「いえ……」と言って顔を上げる。


 瞬間、覚えた既視感。どこかで見たことがある気がした。


 電車が走り出すと、駅前のビルや看板がゆっくりと通り過ぎていく。


 その中のひとつに目が釘付けになった。少し前に、インディーズなのにいきなり売れだした、とあるロックグループの新曲の看板だ。


「――あ」


 既視感がある筈だ。だって、それは目の前にいる男と同じ顔をしているのだから。


 ロックグループ『Q』のボーカル、Q太だ。なんでQ太なんだと思ったことを思い出す。テレビでは、彼はバイだと語っていたから、おいおい、そんな簡単にカミングアウトしていいのかと更に驚いたものだ。


 でも屈託のない子供みたいな笑顔で笑っていたのに、歌っている時は雄々しくて格好よくて、凄えな、と本心から思った。


 滅茶苦茶好みだと思った。


 その人が、今自分の前に座っている。歌は止んでしまったが、あまりにも隆史がじろじろと見ていたからか、顔を少し背けた。


 その時、隆史は見てしまったのだ。彼の目尻一杯に涙が溜まっているところを。


 もう、止められなかった。


「――あ、あの!」

「……え? 俺?」


 Q太が驚いた様子で顔を上げると、片方の目尻から涙が溢れる。ああ、それを自分が受け止めたい、と隆史は強烈に願い――。


 自分でも「なんで?」と思う言葉が飛び出してきた。


「こ、これから俺とカラオケ行きません!?」

「……は?」


 Q太は周りをキョロキョロと見た後、自分を指差す。


「え? 俺に言ってる?」

「はい!」


 周りの空気が、あ、なんかヤバイ奴がもうひとりいるぞ、という雰囲気になったのは肌で感じたが、もうそんなのはどうでもよかった。


「今から是非お願いします!」


 右手をしゅびっとQ太に向かって差し出すと、目を大きく見開いていたQ太が、つられたのかあっさりと隆史の手を掴む。


「あ、掴んじゃった」


 思わずといった様子でぽろりと溢したQ太を見て、隆史はつい「……ふはっ」と笑いを漏らした。それを見て、Q太も涙を流したまま破顔する。


 綺麗だな。隆史は思った。


「……仕方ねえなあ。じゃあ俺の美声を聴かせてやるよ」

「やった」


 隆史がはにかむと、Q太は隆史の手を強く握り締め、「よっ」と立ち上がったのだった。



 ――小さな歌声によって巡り合った二人が、互いに恋愛感情を抱いて固い絆で結ばれた恋人同士になるのは、まだ暫く先の話。

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