第49話 初心
第6グループは鎬を削る激戦区。
日本勢もノーミスの演技を見せ、この時点で理沙さんが3位、雅さんが5位。
(…来たな)
そして、ロシア選手権を制したコマロフスキーがこのグループ5番滑走で登場した。
ハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』
身分を隠した貴族のパーティーで流れる華やかなワルツ。
最初に勘付いた妙な違和感。
トリプルアクセルを飛んだ瞬間に、それは形となった。
「詩音も気づいたか。」
「…はい。」
着氷でこらえきれずにステップアウト。
他のジャンプは成功しているものの、ファイナルの時より明らかに高さがなく、回転もぎりぎりに見える。
ただスピンやステップはレベル4だったり、PCSが取れていたこともあって、得点は『75.19』と僅かに理沙さんを超えた。
「空気に呑まれちゃったのかな?」
「…いや、多分それだけじゃない。」
首を傾げた寧々さんの疑問に「俺もファイナルはテレビで見てたんだけど、あの時の方が気持ちがこもってた。今日のは、ロボットが動いてるみたい。」と朔都さんが答えた。
もし、フリーもこのままいけば涼香が優勝できるかもしれないが、きっと彼女はそれを望まない。
互いが全力をぶつけた上の勝利だからこそ意味がある。
その気持ちは俺も同じだ。
「Number 36 Chrisutina Brezin,Represting Russia」
全体の最終滑走がティナ。
薄紫色のシフォン生地で出来た衣装が風をはらんで揺らめく。
リスト作『コンソレーション第三番』
(…このコンボさえきまれば)
トリプルルッツからトウは突かず、左足のエッジで氷を押して再び舞い上がる。
「セカンドループ!?」
「世界選手権代表を同時に三人も出すって、…詩音のコーチやばいな。」
女子ショートプログラムのセカンドジャンプでトリプルループを組み込んでいるのはティナだけだった。
本人に言ったら怒られそうだが、今年のダークホース的な存在であることは間違いないだろう。
「慰め」というテーマに沿った慈しみに満ちた表情は、成熟した大人の女性になったからこそできるもの。
『72.65』と電光掲示板に映されたティナの点数は6位。
見事フリー最終グループ入りを果たし、ニコラと共にガッツポーズで歓声に喜びを送っていた。
(…宇佐美先生から)
会場からホテルに戻る途中、マナーモードにしていたスマホの電源を点けるとメッセージが届いていることがわかる。
朔都さんたちには先に部屋に行ってもらうように頼み、ラウンジのソファーで返信を打つ。
間髪入れずバイブレーションが鳴った。
「…夜遅くに悪い。」
確か日本では朝の6時ぐらいか。
朝練前に迷惑じゃないかと尋ねると「俺が話したくてかけたんだから、気にするな。それに、あいつらが来るまでにまだ時間はある。」と返ってきた。
「緊張してるか?」
「…緊張っていうか、最近色々考え込んじゃって。」
自分の周りや朔都さんの進路。
一つ解決したかと思えば、また新たな問題が降ってくる。
「拓也から聞いたが、無理して倒れたらしいな。」
あの時に比べれば食欲も戻ったし、体調も安定している。
鳳の件で「四大陸の時に過去のことはタクヤやハルキから教えてもらったし、直接あの状況を目撃したのはスズカだ。礼なら三人に言っておけ。」とライデンに言付けられた。
「一人で抱える癖はいい加減直せ。俺だって心配する。」
叱責の中に込められた穏やかな声。
迷惑とか、面倒だとも感じず周りが手を差し伸べてくれることにどうして気づけなかったのか。
殻に塞ぎ込む方がよっぽど煩わしいのだと。
「心配かけたことはすみません。あれからニコラやライデンも相談に乗ってくれて、今はもう大丈夫です。」
それに、俺が今もスケートを続けられているのは宇佐美先生のおかげだ。
「…ウィルソンコーチは名前で呼んでるんだな。」
不意を突いた溜息に、思わず「…え」と困惑を漏らしてしまう。
その直後、軽快なトーンの声が飛んできた。
「詩音、調子どうだ?」
「市原先生!」
「おい、スマホ返せよ。」
「素直じゃない悠介の代わりに俺が言ってやる。」
「余計なお世話だ。」
画面の向こう側で繰り広げられる口喧嘩は、まるで子供同士が騒いでいるようで、
唖然を通り越して笑いまでこみ上げる。
「自分はいつまで経っても名字呼びなのが不満なんだってさ。」
「…不満とは言ってないだろ。詩音も笑うな。」
半ばやけくそで突っかかる宇佐美先生なんて、クラブにいた頃は見られなかった。
おそらく、生徒には知られたくない姿なのだろう。
それをあっさりと引き出してしまう市原先生とは、現役時代からの長い付き合いらしい。
「詩音の実力は申し分ないし、フリーは思いっ切りかましてこいよ!」
最後にそう告げて市原先生の声が遠のく。
ようやく主導権を返してもらった宇佐美先生は一つ咳払いをしてから、「明日に備えてちゃんと休めよ。」と続けた。
「俺もライストで見てるから。」
「ありがとうございます。…悠介先生。」
「…ああ。おやすみ。」
慣れ親しんだ呼び名を変えるのは、いささか不自然で恥ずかしかったけれど、悠介先生が少しだけ嬉しそうだったから、試した甲斐があった。
照れ隠しなのか、焦り気味で切られる通話。
ずっと引っかかっていた重苦しい棘が抜けたように、心が軽い。
明日のフリーは、良い演技ができそうだ。
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