第5話 絶対音楽

指先まで神経を尖らせて、足を上げる時には甲が外側になるように。

振付師が送ってくれた動画を見ながら、ひたすら身体に叩き込む。

バレエレッスンの基礎で高めるのは柔軟性はもちろん、関節の使い方や姿勢の美しさまで多岐に渡る。


新プログラムの制作は曲選びに始まって、今シーズンの方針を決めるスケーターにとって重大な行程。

フィギュアスケートのシングル競技は、通常2分40秒のショートプログラムと4分間のフリースケーティング(それぞれ10秒の増減が認められている)の2種類の演技の合計で競われる。


今シーズン、ニコラに提案された曲


ショート ドラマ版「エデンの東」のテーマ

フリー サン=サーンス作曲 「序奏とロンドカプリチオーソ」


かつてのオリンピックメダリストも演じた王道のプログラム。

振付師と直接レッスンが出来るのはたったの一週間。

「エデンの東」に関してはストーリーも知っているし、覚えやすい素朴な曲調はイメージが楽に出来る。

ただ、問題なのはもう一つ。


「足ばかりに意識がいってる。もっと大きく動け。」


今練習しているのは、規定のターンの複雑さに応じて1~4にレベルを判定する「ステップシークエンス」

様々な動きを組み合わせて円を描いて滑る事から「サーキュラーステップ」とも呼ばれている。

主人公も物語も無い曲で表現を磨くのは難しい。

映画やミュージカルばかりで滑ってきた俺には尚更だ。

指示された箇所からやり直し、また滑るを繰り返す。


音楽は主に題名に曲のイメージが入った「標題音楽」と、音そのものに集中した絶対音楽に分けられる。

フリーの「序奏とロンドカプリチオーソ」は絶対音楽の類。

振り付けをただこなすだけでなく、スケートとしてどう表現するべきか。

シニアデビューへ立ちふさがる壁となる。


「一回休め。焦っても逆効果だ。」


ニコラからペットボトルを渡され、水分補給を促された。

喉を伝う冷たさは心地よい。


「表現力って言葉で説明しようとしても曖昧だし、それを点数化するのは正直好きじゃない。だからこそ、観客の心を動かす物だと俺は思っている。」


スポーツであるべきか、芸術を取るか。

フィギュアスケートの議論は長らく並行線のまま。

ジャッジも人間である以上、振り付けは点数を稼ぐ道具ではなく、感動させてこそ意味があるとニコラは言う。


「シオンはまだ若い。これから経験を積めば自然と分かってくる。

明日はオフだし、気晴らしに出かけてみたらどうだ?」


「…オフ?」


「ノービスの発表会で一日リンクは使えない。聞いてなかったか?」


クエスチョンマークを浮かべる俺にライデンが「近所の子供が毎年発表会をするために、リンクを貸し出すんだ。」説明してくれた。

「ノービス」というのは日本でいうところの小学生にあたる年齢のクラス。(正式には9~10歳をノービスB 11歳~12歳をノービスAと区分する。)

急にオフとなっても、逆に困ってしまう。


「予定が決まってないなら、俺とバンクーバーを観光しないか?」

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